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『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
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壁に取り付けられた様々な形態の物体。光に照らされたそれらの物体から人の横顔や歩く姿、座り込む少女といった“影”が浮かび上がる。一瞬、わが目を疑ってしまうような摩訶不思議な光景に思わず息を飲む。ニューヨーク在住のアーティスト山下工美が創り出す幻想の世界だ。日本でも「奇跡体験アンビリーバボー」や「金スマ」といった番組で取り上げられ、にわかに注目を浴びた彼女だが、その素顔は至って自然体。そんな彼女に、雑誌メディアとしてはじめてニューヨークのスタジオで独占インタビューを行なった。

COOL: まず山下さんの経歴を教えてください。

Kumi Yamashita: 中学を卒業後、日本の高校に入りましたが、すぐにアメリカの高校へと留学しました。その後、イタリアへ渡り、またアメリカに戻って大学を卒業しました。
スコットランドを訪れた際に、グラスゴー大学の建物に魅かれたことで、そのまま大学院に入学しました。

COOL: アートをはじめたきっかけを教えてください。

Kumi: はっきりとはわかりませんが、あえて言えば幼稚園の頃からだと思います。いわゆる“お絵かき”が大好きでいつも描いていました。母親の顔を描いて
髪など紫に塗ったりして(笑)、母親にも先生にも褒められたのを憶えています。その時点で正しい絵の描き方、マニュアルみたいなものを押し付けられていたら、今の私はなかったかもしれません。

COOL: 現在の「影」を使った作品は、どのようにして生まれたのですか?

Kumi: これも、“いつ”とかは自覚がないです。やはり小さな頃から“光と影”に魅かれていたのではないでしょうか。夕暮れ時に変化していく空を見て、いちいち母親に報告していたぐらいですから。その変化する様子や影などを“きれい”と思ったのでしょう。私が“きれい”と思うものは自然の中で発見することが多いです。多くの人はそうだと思いますが、特に私は“きれいだ”と感じるものに対してに特別な興味を持つ傾向にあるようです。

COOL: 最近、日本のメディアでも取り上げられて話題になっていますが、何か身の回りで変化はありますか?

Kumi: 全くありません。実は話題になったことも知りませんでした。ただ、自分が全く考えてもいなかった感想などを聞く機会は多くなり、多種多様の視点で捉えられた自分の作品についての意見を聞けるのは、とても興味深くて面白いです。作家の観点や意識を超えた新たな発見が第三者から聞けると、「えっ、そうだったんだ!」と思ったりして(笑)

COOL: 日本のテレビ番組に出演した感想は?

Kumi: 疲れました(笑)。ニューヨークから作品を持って行き、ほとんど徹夜状態でスタジオ内に設置・展示しましたから。私の作品は、光を当てながら一から組み立てて現場で仕上げます。当然作品は毎回微妙に変化していて、全く同じものというのは二度と作れないのです。

COOL: インスピレーションの源は?

Kumi: 常に“Happy”な状態でいることではないでしょうか。楽しい状態をキープできていれば、自然とアイデアが湧いてきます。アイデアを求めようとすればするほど、良い作品はできません。良い作品ができるときというのは、必ず自分自身が楽しんで制作しているときです。その楽しい状態が少しでも崩れてくるようであれば、制作はいったん中止して全く違うことをやったりします。例えば、セントラルパークの野草摘みツアーとかに参加したりして(笑)、楽しい気分を違うフィールドで味わいます。私にとって“Happy”な状態であることは普通であると同時に、とても大事なことでもあるのです。

COOL: 影響を受けたアーティストはいますか?

Kumi: あまり他の作家の作品を見ないし、よく知らないのですが、あえて言えば、ギリシアのパルテノン神殿建築に関わったフェイディアスという彫刻家が好きです。神殿の屋根の上に制作した彫刻群のエピソードを聞いてからとても興味を持ちました。
フェイディアスはアテネのパンテオンの庇に建つ彫刻郡を完成させたのですが、アテネの会計官は彼の支払い請求書に対して「彫刻の背中は見えない。見えない部分まで彫って請求してくるとは何事か」と怒り心頭で支払いを拒否したんです。そこで彼はこう応えたんですよ、「そんなことはない。神々が見ている」…この話を聞いてからとてもフェイディアスが好きになりました。作品と言うよりも彼の作品制作に対する精神面な部分に強く共感したからです。

COOL: NYに移った理由は?

Kumi: 「セサミストリート(アメリカでもっとも有名な子供向けテレビ番組)」を見て育ったので、(ニューヨークには)昔から自然と興味を持っていました。あまり歳を取ってから来るとハードではないかと思い、2年くらい前に移ってきました。特にアートに接するためとかいう目的ではありません。実を言うと、最初はとても恐怖感のほうが強かったんです。でも実際の暮らしはとても自然体でいられて楽しいです。ここは外国人がいない街だと思います。だから人間対人間というレベルで人と接することができるんだと思います。それが楽しい理由のひとつかもしれません。

COOL: 作品制作のプロセスは?

Kumi: プロセスですか…先ほども言いましたが、私の作品作りの一番大事な部分は常に自分が楽しいと思える状態でいられること。この状態でないと絶対に納得のいく作品は作れません。楽しい状態であるときには、アイデアが自然と湧いてきます。意識してアイデアを考えることはありません。アイデアが浮かんできたらそれを紙の上にスケッチします。その後に実際に立体の作品へと移ります。まずは床の上で基となるパーツを置いて横から光をあてながら作っていきます。それができたら今度は実際に壁に移していくのです。

COOL: 影の部分と影の基になる原型が全く違う形で、いわば抽象から具象を生み出すともいえます。その発想はどこから?

Kumi: まずは実際の影をモデルにして、そこから影の基となる作品制作に移ります。私自身はとても具象的なので、抽象をする作家さんをとても尊敬してしまいます。抽象の世界は私には考えもつきません(笑)作品の発想がどこなのかは自分でも全くわからないのです。上のほうからこうやって(アイディアが)降りてくるような(笑)気がついたら手が勝手に動いていたみたいな感覚ですね。

COOL: 山下さんにとって「アート」とは何ですか?

Kumi: この間、友人と話をしていた時に偶然、会話の中で発見したのですが、「アート」とは「Act of God」なのではないかと。作品づくりの中で常々思っていることは、自分が作っているのではなく、もっと高いところにいる何か、それがGodなのかはわからないけど、自分ではない他の誰かからの啓示を作品として表しているのではないかと思っています。

COOL: 今後の活動と将来の展望について教えてください。

Kumi: 全くわかりません(笑)将来の自分の作品をどう展開しようとか考えたことはありませんが、どうしたら楽しく生きていけるかという事はいつも考えています(笑)なぜなら私にとって“楽しく生きる”ことこそが、新しいインスピレーションの源や新しい作品を生み出す力となるからです。良い作品をつくることさえできれば、後の展開は自然に良い方向へと広がっていくように思っています。それって楽観的すぎます(笑)?


Interview by Sai Morikawa, Photo by Akiko Tohno
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ピアニストとして世界中から称賛されるフジ子・ヘミング。心の美しい人たちは彼女の奏でる音色に涙を流すという。2008年6月には、パリのサル・ガヴォーで注目の若手ヴァイオリニスト、2002年にフランス文化勲章シュヴァリエを叙勲したローラン・コルシアとの共演を果たすなど、世界中を駆け巡り、数多くのコンサートで人々を魅了させてきた彼女の、猫と犬に囲まれたパリの住まいを訪ねた。

Q.幼少期からピアニストの母・大月投網子さんにピアノを習ったそうですが、ピアニストとして生きていくことはすでにその頃から決めていたのでしょうか?

母はピアノを教えただけで、私がピアニストになることは望んでいなかったの。ピアノを習い続けること、そして一流のピアニストになるまでにはすごくお金がかかるでしょ。スウェーデン人の父は日本にいなかったし、母はピアノ教師としてやっとの思いで家計を支えていた。子供の頃から、まわりの人たちが「フジ子は天才だ!将来、世界中の人に感動を与えるピアニストになる」って言う度に母は苦笑していたわ。子供ながら、周囲の絶賛と母の戸惑いという大きな狭間で、ピアニストになるべきなのか、すごく迷っていた。だから、小さい頃はピアニストになりたいと強く思うことはなかったわね。

Q.29歳でベルリン国立大学へ留学した時、ドイツでどんな生活をされていましたか?

当時の私は無国籍だったから、長い間外国へ行けなかった。赤十字認定の難民として、ドイツ国内でのみ勉強できるという条件で期待を胸に旅立った。でも正直あまりいい思い出はないの。いい人との出会いがなかったし、辛い思いをたくさんしたの。それでもね、今でも忘れられない嬉しい出来事があったわ。一流の新聞が私のコンサートに関する記事を載せて、驚くべき才能と絶賛してくれたの。日本ではそれまで新聞で取り上げられることがまずなかったから。

Q. フジ子さんの代表作と言われているフランツ・リストの「ラ・カンパネラ」を演奏されるとき、どのような思いで弾いていらっしゃるのでしょうか?

練習しているときはいろいろなイメージを思い浮かべながら弾いているけど、演奏中はほかのことを一切考えないで、集中している。聴いてくださる方が感激してくれるような演奏を、と思って無心になって弾いているの。「ラ・カンパネラ」が代表作って言われているけど、私はそう思ってない。若いときに「ラ・カンパネラ」を弾くことはまずなかった。どの作品も私は同じ気持ちで弾いているわ。死に物狂いで弾いたものはきちんと相手に伝わるから。

Q.同じくパリに住んでいたリストとご自分の生き方などになにか共通するものはありますか?

人を助けていることかしら。リストも色々な人を助けたわ。ロベルト・シューマンやフレデリック・ショパンなどを支えた心の広い人。ブダペストに、晩年のリストが聖職者として過ごした教会があるの。そこに行って、彼の人生について、彼の寛大な心について考えたりすることがある。

Q.今まで一番印象に残った演奏は?

どれも印象に残っている。うまくいった時もあるし、満足できなかった時もある。ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインが演奏会の後で舞台を掃除したら、引き落とした音符がバケツ一杯分くらい落ちていた、って言ったでしょ。その気持ち、とてもよく分かるわ。

Q.ピアニストとは、どのようにあるべきだとお考えでしょうか?

音楽は世界に共通する、ことばでは表せないものなの。素晴らしい天才たちがつくった作曲を私は再現しているの。その作曲家の精神を最高のコンディションで再現することがピアニストの役割ではないかしら。心の貧しい人が弾いても人を感激させることはないと私は思うわ。

Q.ニューヨーク同時多発テロ後の被災者救済のために1年間のCDの印税を全額寄付されたり、アフガニスタン難民のためにコンサートの出演料を寄付したりされています。こういった、いわゆるチャリティー活動をはじめるきっかけのようなものはありましたか?

そうね。無名時代から聖路加病院に行って、ヴォランティアというかたちで患者さんたちの前で弾いていたことかしら。その後NHKで私の関するドキュメンタリー番組が放送されて、1999年2月に私はたった一晩で有名になったの。今思えば、無料リサイタルを聴いてくださった方の中に、ドキュメンタリーの企画につなげてくださった方がいたのかもしれないわね。私は有名になって、収入が入りすぎた。だから、ピアニストとして活動して、人を助けるために収入を寄付することにしたわ。無名時代はお金がなくて困った時期もあった。でもね、今は多くの方に認められて毎日忙しく過ごしている。たまに昔の静かな生活が恋しくなる時もあるのよ。

Q.読書がお好きとのことですが、どのような書物がお好きなのですか。ピアノに影響を与えることはあるのでしょうか?

いろいろな人の自伝をよく読むの。あるとき、こんなことがあったわ。第一次世界大戦中にドイツに生きた20歳のごく普通の女性の日記をたまたまドイツの本屋さんで買ったの。表紙がセピア色でステキだったから気に入ってね。彼女の日常が綴られた日記には、戦時中の家族の苦難や、恋愛、看護婦として戦地で働いた様子などが記録されていて、ものすごく感激した。ある日、その本を飛行機の中に置き忘れてしまって、ことばでは言い表せないほど悔んだわ。特に有名な人の自伝という訳でもないので、絶版になっていて、もう二度と手に入ることはない本。でもね、しばらくして、置き忘れたその本が、親切な人の手から手に渡って世界中を回りまわって自分の手元に戻ってきたの。封筒にいろいろな国のスタンプが押されていてびっくりしたわ。こんなことってあるんだわ、と思って本当に感動した。

Q.クラシック以外で、どんな音楽を聴かれますか?

シャンソンが好きだわ。あまり賑やかすぎる音楽はあまり好きではないの。たまにレストランに行くんだけど、お店の中でかかっている音楽がよく聴こえる席を自然と選んでいることに気づくことがある。

Q.知的好奇心はアーティストに欠かせないものだと思いますか?

ピアニストになりたい、音楽家になりたい、と思って音楽学校に通っていることに満足していてはいけないのではないかしら。映画館に行ったり、歌舞伎を観に行ったり、とにかくあらゆるものを自分の目で見て、肥やしにすることが大事だと思うの。そうでないと、人を感激させるような演奏家にはなれないわ。

Q.小さな頃から絵を描いていたそうですが、当時はどんな絵を描くのがお好きでしたか?

はじめはお人形さんの絵が多かったわ。小学校の時、校内で一番うまいと褒められて、すごく嬉しかったのをよく覚えている。絵の技術を習ったことなんて一度もない。好きだから描いている、それだけなの。

Q.2007年12月~2008年1月にかけて、パリのサンジェルマン界隈のギャラリー街にあるアトリエ・ヴィスコンティでフジ子さんの個展が開かれました。画家としても活動されているフジコさんにとって、絵と音楽はどのようなつながりを持っていますか?

素晴らしい感受性を持っている人は私の絵と音楽を同じように認めてくれるの。若い時というのは、自分の才能に気づかないことがある。まわりがいくら才能を認めてくれても当の本人にはピンと来ていないの。だんだん経験を積むと、ほかの人よりも優れているのかどうか分かってくる。ピアノと同じように、絵の才能もみんなに認められようとして、ハガキ一枚一枚に違う絵を描いて世界中に送ったの。有名な指揮者や演奏家たちに。そうしたら、私のピアノを認めてくれている人たちはみんな絵に感激して、とても嬉しかったわ。それとね、絵って好きか嫌いか、それだけだと思うの。絵がどうあるべきかなんて誰も知らないのよ。理論じゃないの。ある日、下北沢を歩いていたら、若い女性に声をかけられて、「私は音楽のことは分からないけど、フジ子さんの絵が一番好きです」って言ってくれたの。すごく嬉しかったわ。賞などを取ることよりも、一番好きという気持ちで私には充分、それだけでいいの。

Q.昔からパリに憧れていたそうですが、どんなところに魅力を感じるのですか?

パリに憧れていたのは、素晴らしい芸術家が集まった場所から。大好きなモディリアーニやロートレックは売れない絵を描いていた。彼らは優れすぎていたから認められなかったって私は信じている。ゴッホだってゴーギャンだって売れなかった。彼らの伝記を読んですごく勇気をもらったわ。元牧師だったゴッホは貧しい生活をしていたのに、ベルギーで大洪水があったときに、あるだけのお金を出して支援をしたの。素晴らしい人生だと思うわ。

それとね、パリは芸術の都と言われているけど、本当だなと思う。パリジャンたちもそうよ。家にいる時、窓から道ゆく人を眺めるのが好きなんだけど、ステキな人が歩いている。窓から見下ろしているので顔ははっきり見えないけど、教養があると姿に現れるのよ。そういう人を見ると、その人にしかない人間の温かみのようなものを感じるの。その度に生きていてよかった、と思う。さまざまな影響って、ものから人へよりも、人から人への方が大きいと思うわ。あとはね、パリの好きなところは、見ず知らずの人でも目が合うと、にこっと笑うところが好き。

Q.恋すること、恋の力は芸術に大きな影響を与えるのでしょうか?

どうなのかしらね。失恋するとピアノが上手くなるってよくいうけど、まあ本当かもね。恋をしていると、酔っ払っているみたいな状態じゃない?バカになっちゃう。でもね、恋もしたことがない人のピアノってはたして人を感動させられるかしら?

Q.芸術とはどんなものとお考えですか?

美しいものを追い求めること。それと教養を高めていかないともといいものがつくれない。
偽者か本物か見極める目を養っていくことも大切ね。

Q.今までのフジ子さんの人生を支えてきた「言葉」や思い出のものは?

いっぱいあるわ。中でも旧約聖書のハバクク書2章3節、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。有名になる1ヶ月前に、ある教会に行って、神様から預言者ハバククへのこのお告げが書かれた小冊子をもらったの。いつか才能を認められる日が来る、だからそれまで辛抱するのだ、という神様からのメッセージだと思ったわ。今でもその冊子は大切に持っているの。神様は私にさまざまな苦労も含めて、いろいろな経験をさせてくださったのだ、って後で思ったわ。今までの人生で、どれだけ無駄な時間を費やしたのだろう!なんて思ったこともあったけど、結局全て私の糧になったの。本当に一生懸命頑張ったことは、無駄になんてならないのよ。人間って100%完璧な人なんて一人もいない。ある人はこんなことが得意で、また別な人は違うことで長けている。みんなの力が合わさると強くなるの。

Q.今後のご予定を聞かせていただけますか?

新しい芸術家が現れて、一緒に演奏したいと言ってくれているから、楽しみなことがいっぱい。新しい音楽が次々に誕生して、クラシック離れが進む中、多くの皆さんが私の演奏を聴きたいと思ってくれるのが何よりも嬉しいの。


Interview by Chiho Yoda, Photo by Masatoshi Uenaka

Special Thanks Appel Film, Remi Igarashi


マンハッタン・チェルシー地区の一角にあるギャラリー「Chapel of Sacred Mirrors (CoSM)」で、ヴィジョナリー・アートの巨匠アレックス・グレイが、彼の作品に秘められているヴィジョンや哲学を解説してくれるギャラリー・トークを行なった。

「ヴィジョナリー・アート(又はサイケデリック・アートとも呼ばれる)」とは, 肉体的な視界にとどまらない, 次元間を超越した世界を表現したアートのことである。代表的なアーティストに15世紀中期にオランダの大画家で悪魔的な怪奇性や幻想性に富んだ絵で有名なヒエロニムス・ボス、18世紀に活躍したイギリスの画家で詩人のウィリアム・ブレイクなどが先駆者として挙げられる。近年ではニュー・エイジ・ムーブメントの流行に伴い、絵画からポストカード、Tシャツまで、多種多様なメディアの中にヴィジョナリー・アートの片鱗をみることができる。

「バーニング・マン」と呼ばれ、毎年8月最終週の月曜日から7日間にわたって、ネバダ砂漠の広大な土地で行われる大規模なイベントがある。これはヴィジョナリー・アートとレイヴ・シーンが融合しあったもので、ヴィジョナリー・アート崇拝者達にとっては最大のイベントである。1986年、サンフランシスコに住む男性が恋人との諍いの憂さを晴らすために、等身大の人形を燃やしたことが由来で、この“人形に火をつけて燃やす”行為がアーティスト達の興味を集めたのだ。その後、この儀式は更に人気を集め、ニューエイジ・カルチャーに傾倒する若者やアーティスト達による恒例の夏のイベントへと発展した。現在では世界中から約4万人を集めるほどの規模になり、70年代に現れたヒッピー・ムーブメントの復活を彷彿させる。

アレックス・グレイはこの「バーニング・マン」に集まる人々にとっては、絶大な支持と人気を誇るカリスマ的存在のアーティストである。彼の作品は、人間と宇宙・精神世界のつながりを、緻密で複雑な構成のもとに卓越・熟練した技法を用いながら表現している。彼のアーティストとしての活動は絵画だけにとどまらず、彫刻・オブジェ、インスタレーションやパフォーマンスなど多岐にわたる。

所狭しとギャラリーの入り口に集まる参加者たち。200人ほどの参加者のうち半数近くが西海岸や全米各地から集まった。参加者の中には、ブラジルやドイツ、オーストラリア、日本など、海外からの参加者もいた。そこにアレックス・グレイが登場した。その風貌は華奢で繊細であり、一体どこにあれだけのパワフルな絵を描くエネルギーを秘めているのかと不思議になる。

グレイの誘導によってギャラリーの奥へと進むと、普段は悠然と構えるギャラリー内は瞬く間に大勢の人に埋め尽くされて、溢れるばかりの熱気に満たされてしまった。グレイの作品の特徴として,カラフルな精密画の中に数多くのシンボリズムが秘めていることが挙げられる。それは時としてチベット密教の「曼荼羅」を彷彿させる。今回のツアーは、彼の作品に秘められた謎やシンボルの意味をグレイ本人から語ってもらう絶好の機会なのだ。

グレイはグラフィック・デザイナーであった父親の影響を受け、早い時期から絵心に目覚めていた。しかしそれと同等に芽生えた「生」と「死」に対する深い興味を抑えることはできず、少年期に描いた絵には、裏庭で集めた昆虫や小動物の死体なども描かれている。自他共に認めるほど秀でた絵の才能の持ち主ではあったが、70年代のアメリカで起こったヒッピー・ムーブメント, ポップ・カルチャーやミニマリズムの台頭といった歴史的背景と多感な青春時代が一致して、コンセプチャル・アートやパフォーマンス・アートにのめり込んでいった。その後、人生を大きく変える、ある出来事に遭遇したことによって、彼の現在のスタイルが形成されたのだという。それは、ボストン・アート・スクール最後の日のパーティーで、後に彼の最愛の妻となるアリソンと出逢ったことと、その時に初めてLSD(麻薬の一種)を体験したことで、彼の世界観と人生観は大きく変貌することになったのである。

「初めてトリップをした時に、光と闇の渦巻きのヴィジョンを見たんだ。」と、そのヴィジョンを基に作成されたオブジェクトを指差すグレイ。その作品は光と闇を象徴する白と黒が渦を巻き、中央にある灰色の部分がその両極をつなぎ止めている。彼にとってこの“灰色(グレイ)”はこの世界に存在する二極性、つまり光と闇、物質的な世界と霊的な世界、「男性性」と「女性性」、「生」と「死」、「自己」と「周囲」、「地球」と「宇宙」など、全てを媒介する橋渡し的な意味を持ち、彼の描く世界に存在する人間そのものが、この「グレイ」の役割を担っているともいえる。このヴィジュアル・トリップがきっかけで、本名のアレックス・ヴェルジーから改名して、“アレックス・グレイ”を名乗るようになり、さらにはLSDを常用するようになった。

作品製作のためにドラッグを使用することを公言するグレイは、それを彼の言うところの“ヴィジョナリー・ステイト(非現実的な状態)”に達するための手段のひとつであり、ヴィジョナリー・アートとは、我々のイマジネーションの領域すべてを意味し、現実の多次元性を覗くための“レンズ”のようなものなのだと語る。彼は「宇宙や精神世界と現実の世界の間の伝道者としての自分の使命を遂行するため」に、自分の意思でドラッグを用いているという。彼は、グレイに触発されてドラッグに走ろうとする人々に警告する。この行為が違法であることや、グレイの友人がLSDの濫用で逮捕され、20余年の刑に今も服していることなども例に挙げて、LSD使用について質問した若者に対してグレイは厳しく問い返した。「君があたえられた使命は何なのだ?」と。

鮮やかなカラーが強烈な印象を与えるグレイの絵画には、通常我々が視覚で捕らえようない観念や感覚が存在し、超現実的なものやシンボリズムを含む多次元的な世界が描かれている。それも、彼がLSDなどのサイケデリックスで得た体験に基づくヴィジュアルな現実なのである。そして彼の作品の多くには、普遍的な真実を探求する想いとメッセージがひとつひとつ細かに描かれている。それはチベット仏教、キリスト教、カバラ(ユダヤの密教的哲学)、スフィなど、彼自身が真実を求めるために学んできた様々な宗教と哲学、その象徴やヴィジョンなのである。

その多次元的な彼の作品には、常に「人間」と「人間の体」が中心的な役割を果たしている。ハーバード大学の解剖博物館に5年ほど勤務している間に独学で解剖学・超心理学・チベット密教を学んだ後、メディカル・イラストレーターとして解剖図を描く仕事をしていた経歴を持つ。グレイの描く人体は透視図のように骨、筋肉、神経はもとより、東洋医学で使用される経絡やツボまでが正確に描かれている。

「我々の身体は“テンプル(聖堂)”なんだ。私達は奇跡のようにすばらしい聖堂に生きているんだ。」と、目を輝かせながら話すグレイ。 彼はシャマーニズムの“トランスフィグレーション(変容)”という手法を使って、 宇宙、自己の中にある世界、異なる現実などの多様な次元の橋渡し的な役割としての人間を描く。 彼が描く世界観の中で人間はとても重要な意味を持っているのだ。

「アートは私達の中にある自己を反映するものなんだ。コンテンポラリー・アートはこのままでは意味がなく、的外れなものになってしまう恐れがある。」と危惧するグレイは、自身の絵を通じて彼が見出した普遍的な真実を人々の意識に植え付けていきたいと語る。今後は、ニューヨーク郊外に彼のアートや思想活動の本拠地をつくる計画や、2007年の秋には新しい展覧会も予定されている。

作品の印象や経歴から、エキセントリックな人物を想像しがちであるが、グレイ本人はとても情熱に満ちてはいるが決して攻撃的ではなく、知的で思慮深い人物である。2時間を越える熱いギャラリー・トークが終わった後も、グレイと直に接しようとする人々のリクエストに丁寧に受け答えていたのが非常に印象的であった。

Text by Reimi Takeuchi & Sai Morikawa, Photo by Ryu Kodama


5秒間に60,000枚。30秒間に106,000個。5分間に2,000,000本。一日に426,000台…読者の方々はこれらの数字が何を示すものだかおわかりだろうか?消費大国アメリカでは、毎5秒ごとにおよそ60,000枚ものプラスティックバッグが消費されているのだ。さらに毎30秒ごとにおよそ106,000個のアルミ缶が、毎5分ごとに2,000,000本という途方もない数のペットボトルが捨てられ、毎日426,000台もの携帯電話がその役目を終えるという。これらは全てアメリカの社会において、いま現在も絶え間なく続いている信じ難い現実だ。そんな我々人類がもたらした現代社会に巣喰う深い闇を鋭く切り取る、写真家クリス・ジョーダン。弁護士から写真家に転身した異色のアーティストの「リアル・ワールド」をご覧いただこう。


Handguns, 2007 © Chris Jordan

COOL: 写真を始めたきっかけは?

Chris Jordan(以下CJ): 母は水彩画、父が写真というように、両親がアーティストという家庭で育ったので、私が写真を始めたのは必然の成り行きかも知れません。でも40才ぐらいまで写真は趣味のままにしておきました。私は長らく企業弁護士として、個人的にあまり有意義ではない時間を過ごしていました。そんな私にとって、写真は創造的な逃避手段でしたが、弁護士の職を捨てて、アーティストとして写真だけでやっていく決心はなかなかつきませんでした。しかし40才を目前にしたとき、今のままの生活を続けても、自分が老人になる頃には後悔ばかりが残るのではないかと思うようになりました。そして私はついに弁護士の職を辞してアーティストになったのです。改めて思うと、あれからまだ5年しか経っていないというのは驚きですが。


COOL: あなたにとってアートはどのような意味を持つのでしょうか?

CJ: アートには様々な機能があるけれども、私は「社会を映し出す鏡」としてのアートに特に興味を持っています。人々が自分たちについて気づいていないことを、アートを通じて見せるのです。アートは個人的にも集団的にも、行動の中で無意識に行なっているものを呼び起こす作用を持っています。それはアルコール依存症の人が他人に「あなたは自分では気づいていないかも知れないけれど、アルコール依存症のようですね」などと言うのに似ています。

このように、アートは強力な道具となり得るのです。しかしアーティストには内省や、複雑な問題を尊重すること、そして説教じみていたり偽善的ではなく、また一次元的ではないことが要求されます。私が自分自身を見つめたとき、自分が貪欲なアメリカのいち消費者であることを改めて認めざるを得ません(それはたくさんの素敵な私の所有物が証明しています)。ですから私は、本当はこういった問題について語れる立場にないのかも知れません。しかし同時に、声をあげることはできるのです。アルコール依存症の人は、アルコール依存症だから黙っていなくてはいけないということではないのですから。

COOL: あなたにとって写真の魅力とは?

CJ: 私が思うに、手段としてのカラー写真はユニークな立場にあると思います。様々なアートの形がありますが、カラー写真はその中でも最も具象的と言えるでしょう。他のアーティストたちも、この問題について詳しく検証しています。そして写真が、真に客観的ものには決してなり得ないということを示そうとしています。しかし私は、他のアートに比べ、カラー写真は最も写実的な表現手段であると思っています。だからこそ、まるで鏡のように現実の世界で起こっている様々な事象を鮮やかに映し出す力を持っているのです。

近ごろ私は、実際の尺度で大衆文化を描こうとしたのですが、消費やゴミの問題がアメリカ中に広がり深刻化している現実に、普通の写真では太刀打ちできないことを悟りました。国中の全部のゴミが1ヵ所に集まって、それを写真に撮れる場所なんてどこにも存在しません。だから我々は消費というものがもたらす結果を統計によってしか見ることができないのです。だから私はこの結果を視覚化するために、写真とコンピューターを駆使して現実では作れないイメージを創造しました。これが「Running the Numbers」というシリーズです。

この作品は伝統的な写真とは違うので、これを本当に写真と呼んでいいものか分かりかねますが、多くの人々は私をフォトグラファーとして捉えていることでしょう。「Running the Numbers」には、いくつか実際にはカメラを使っていない作品もあります。それらはインターネットからダウンロードした小さい写真を構成して作りました。
Cell Phones, 2007 © Chris Jordan

COOL: オーディエンスには、あなたの作品をどのように感じとって欲しいですか?

CJ: まずは、社会における巨大で驚くべき数々の問題に立ち向かう、視覚的証拠としての作品です。これらの問題の大きさは統計だけでは計りきれません。だから私はそれを視覚化することで、より人々がダイレクトに感じることができるように描こうとしているのです。

さらには、私の作品が、鑑賞者にとって世界における自分の立場を確認する手助けになればとも思っています。「Running the Numbers」は部品の集積が巨大なひとつの集合体を形成しています。鑑賞者は、作品から離れて見ることでその集合体をはっきりと確認することができ、また近づいて見れば、無数に集められたひとつひとつの部品が集合体を形成していることを確認することができます。集合体というのは、結局はたくさんの部品の集まりに過ぎないのです。わかりきったことのようにも聞こえますが、実はそのひとつひとつにこそ大切な真実があるのです。我々の社会はあまりにも巨大で複雑化していて、人々がこの真実を本当に感じることが難しくなっています。私の作品の目的は、鑑賞者に集団の中における個々の大切な居場所の存在を主張することです。これは人々の、文化における集団的な問題に貢献するかもしれない行動を見ることで、他者に影響を及ぼそうと試みる巧みな方法なのです。

COOL: なぜ環境問題に目を向けるようになったのですか?

CJ: 環境問題のほうが偶然に私を見つけたようなものです。初めて撮影したゴミの集積写真も、純粋に美しいという理由からでした。その写真を引き伸ばして仕事場の壁に貼りました。すると友人が、この写真を見るなり消費者運動について語りだしたのです。私は当時、写真を美しく撮ることにしか興味がなく、消費の問題については全く関心がなかったので、人に作品を間違って解釈されることに悩まされていました。しかし、しばらくすると、私には現代的な世界ともっと深く関わる作品が撮れるということに気づいたのです。それからというもの、消費や大衆文化の問題にどんどん興味が沸いてきました。以前は気にも止めなかった重要な問題の発見に、まるで目が覚めたような気がしました。今でこそ、そういった問題に関心を示す市民であることは事実ですが、これはまさに最近の出来事なのです。以前ならば、消費の問題や環境影響、ましてや選挙に投票することなど全く考えられませんでした。

COOL: 現在は主にどんな問題に取り組んでいますか?

CJ: 「Running the Numbers」を撮り続けながら旅行や演説をたくさんしています。最近では、スタジオを運営するスタッフを雇うことで制作の効率を上げようとしていて、少々参りぎみです。作品に対する周りの反応は想像以上に素晴らしいのですが、新しい経験というものは常に新しい問題を伴うということも分かりました。今では、小さい事業を興してそれを大きくしていった人々に尊敬の念を持っています。私が今ちょうどそれに腐心しているところだからです。

COOL: 今までの人生で最も興奮した瞬間は?

CJ: あれは2007年の始め頃だったと思います。私は自分のウェブサイトで「Running the Numbers」を初めて公開したのですが、わずか数週間のあいだに何十万もの人々が私の作品を見にサイトを訪れたのです。瞬く間に私の作品が、まるでウイルスのようにインターネット中で広がっていく様子に、私は強い興奮を覚えました。その反応は、おそらく人々が世の中でより賢明で道徳的な生きかたをするために、私の作品に何かを熱望しているからでしょう。例え集団における愚行に全員が気づいていたとしても、個々のおこないというものは急には変えられないということが、我々にとって困難を招いているのだと思います。


COOL: 過去の作品で一番印象的な作品は?

CJ: 私にとって「Prison Uniforms」という作品が最も衝撃的です。これは2005年当時に刑務所に収監されていたアメリカ人230万人と同数の囚人服の写真です。アメリカは世界中で最も囚人人口が多い国なのです(中国やインドのほうがアメリカより人口が多いにもかかわらず、囚人の人口においてはアメリカが群を抜いている)。このような国はアメリカをおいて他にはありません。

囚人服のひとつひとつをできるだけ小さくするように試みましたが、230万という数を全て収めるには、最終的に8m×3mという巨大なプリントが必要になってしまいました。この作品の前に立つと、アメリカにおける「自由」の滑稽なほど途方もない巨大さに衝撃を覚えます。

COOL: 将来のヴィジョンについて教えてください。

CJ: この手の質問は、いつか再び無名の頃に戻らなくてはならないような気を起こさせるので怖いですね。今年は「Running the Numbers 」を展示するための旅行と演説をたくさんするつもりでいるので、実をいうと先のことはあまり考えていないのです。このシリーズが終わればまた新しいことを始めなくてはなりません。もしかしたら次にやることのアイディアが無くなって、新しいものを作れなくなってしまうかと思うと恐ろしいのです。それはリスクですが、私は別の道よりも敢えてリスクを選びます。別の道とは、同じ場所に留まること、成功を繰り返すこと、そして新しいことに挑戦することに対する恐れなどです。私は弁護士として10年間もそういったことをやってきたので、安定というものがどういうものかわかっています。私にとってそれは高い代償ではありますが。

COOL: ファンの皆さんに何か一言

CJ: いつか日本での展示を実現させたいと心から願っています!


Interview & Photo by Taiyo Okamoto

ギャラリーの壁面を覆い尽くすCGを駆使した巨大な作品「エレベーターガール」。映画のセットのように丹念に作り込まれた仮想空間の中で、幾人もの同じ制服姿のエレベーターガールたちが思い思いのポーズをとる。老婆の顔をした少女たちが演じる、ユーモラスな中に残忍さを覗かせる自己の心象風景を銀塩写真で切りとった作品「フェアリーテイル」シリーズは、まるでお化け屋敷にでも迷い込んだかのような印象を見る者の脳裏に強烈に焼きつける。そうかと思えば「マイグランドマザーズ」シリーズでは、モデルに特殊メイクを施し、モデル自身が思い描いた「50年後の自分がいる未来の世界」を様々なかたちで演出している。



Eternal City I, 1998 ©Miwa Yanagi

今年ニューヨークで初の大規模な個展を行なった京都在住の美術作家、やなぎみわ。やなぎの自己表現への貪欲なまでの渇望と制作意欲、美術という表現手段を駆使する純粋な表現者としてのストイックな姿勢は、アーティストと呼ぶよりはむしろ美術作家と呼ぶほうがピタリとくる。そんなやなぎだが、実は最初から美術作家を目指していたわけではないのだという。

京都市立芸大在籍中は日本の伝統工芸を学んだ。しかし、制作のプロセスがあらかじめ決められた伝統工芸にもどかしさを覚え、大学院に進んでからは布を使ったインスタレーションの制作を始めた。素材を自由に使い、自己表現の可能性を模索しつつ、次々と新しい作品を生み出していった。ところが、卒業を機にやなぎはぱたりと制作を止めてしまう。まるで憑き物が落ちたかのように制作への意欲は急速に失われた。それから3年間、美術史を教える教員としてアパートと教室を往復するだけの日々が続いた。

毎日通勤電車に揺られ、教室で講義をすることだけを繰り返していた自分。閉ざされた日本の社会の中でアイデンティティーを失い、ただ日常を演じ続ける。そんな自分の姿を投影した「エレベーターガール」シリーズ。

もともと学生時代には作品をつくることが日常となっていたやなぎにとって、一切の制作を止めてしまったという事実が、ずっと心の片隅に引っ掛かっていた。その一方で、毎日の通勤途中に通過する交通機関や商業施設、その中でせめぎあう消費と労働、社会の中で演技し続けねばならない人々の行為に興味を抱いた。と同時に、デパートのエレベーターガールに奇妙なシンパシーを感じていた。「エレベーター」という閉ざされた空間の中で日がな一日、昇降、ドアの開け閉め、儀礼的なアナウンスを繰り返す彼女たちの姿に、毎日教室の中で美術史を教える教員としての自分の姿を重ね合わせていた。

「ただ純粋に彼女たちをモチーフとして自分の作品に取り込んでみたいと思った」というひとつの動機が、やなぎの中で燻っていた創作意欲を呼び覚ました。なんのプランも立てず、アートとしての成立云々を考える間もなく、ギャラリースペースを借り、そこへ生身のエレベーターガールたちを持ち込んだ。それがのちにやなぎの最初のシリーズ作となる「エレベーターガール」の始まりだった。

やなぎは、日本の現代社会という閉鎖されたひとつの共同体の中で心地よく生きる術を無自覚のうちに身につけてしまった現代人の倦怠感や陶酔感を、エレベーターガールを通して表現しようとした。しかし実際には、生身の人間を使ったがゆえの本物の「生々しさ」や、自分ではコントロール出来ない予想外の出来事などが、やなぎが思い描いていた人形を並べたような無機的な世界のイメージとはかけ離れた作品にしてしまった。そこから今度は自分の描いたリアリティをコントロールするために、写真などを媒体として使う作風へと移行していった。

海外から日本にリサーチに来ていたキュレーターに見初められ、偶然にもたらされた新たな転機。そして初の海外展への参加。

1996年、キュレーターに勧められるがまま、ドイツで行なわれた大規模な国際展「プロスペクト’96」に参加し海外デビューを飾ったやなぎ。だが本人に当時の海外への意識を問うと意外な答えが返ってきた。「当時はまったく海外のアートシーンを意識したこともなかったですし、美術作家とはどういう者かも知りませんでした。自分の作った作品が売れるということやそれを生業にすることも知らなかった。作品を気にいった人が『あなたの作品を売ってくれないか』と聞いて来ても、その意味が分かりませんでした(笑)」。

近年でこそ、日本も欧米の影響を受けて商業画廊が増え、作品が売れることによって美術作家として生計を立てることができる人も出てきた。美術作家を育てようという風潮や、それ目指す若者たちも国内外を問わず積極的に自分たちを売り込むようになった。しかし90年代当時、日本でギャラリーといえば大半は貸画廊だった。ましてや、やなぎは学生時代、コンテンポラリーなアートシーンとは隔離された伝統工芸の世界に生きていた。そんな状況の中で美術作家としての自覚を持たないままに「マイグランドマザーズ」や「フェアリーテイル」といった新シリーズを次々と発表していった。2000年以降、ヨーロッパではやなぎへの評価はどんどん高まり、ドイツ銀行をはじめとした美術財団などがやなぎの作品を次々とコレクションしていった。

Series of Fairy Tale: Gretel, 2004 ©Miwa Yanagi


前の作品の反作用から次の作品が生まれる」。コンセプチュアルな作品から工芸的な作品への回帰。自己の中と外を行き来しながら、制作というやなぎ本来の日常を取り戻す。

「自分の好きなことはあまり長く続けたくないんです」。やなぎは自分が好きなシリーズだった「フェアリーテイル」を意識的に完結させた。それは上手くなることを嫌うからだ。自分の好きなことを続けていくことは当然楽しいことだし技術も向上する。しかし、その魅力に無自覚に囚われているとどんどん閉鎖的になり、いつしかそこに留まってしまう。好きなことだからこそ敢えて続けない。そして「毎回、作品の必然を自分に問いつつ、新しいことには挑戦する」ことが大事だという。

ファンに向けたメッセージを求めると、やなぎは表情を崩して笑った。「よくレクチャーなどに行くと、会場で『前のシリーズが好きだったんですけど、今回のシリーズは全然違う』というようなことを言われるのですが、新しい作品を出すときは作家にとって最も恐ろしく、見る人には最も美味しい瞬間のはず。予定調和で馴れ合わない対話が、作品を通して立ち上がるときなんですよ。」常に新しい出発点を求めるやなぎの作品づくりは決して様式化しない。だからやなぎの新作は常にファンを裏切る。それは美術作家としてのやなぎが持つ魅力のひとつに違いない。そして私たちは、やなぎの新作とその「裏切り」を密かに心待ちにしているのだ。

Series of Fairy Tale: The Little Match Girl, 2005 ©Miwa Yanagi


やなぎに、アート以外にやってみたいことは何かと尋ねると、「身体性を取り戻すような行為や生活に挑戦する可能性はあるかも知れません。今まで少々身体を放ったらかしにしすぎた。もちろん制作につなげるためにね」という答えが返ってきた。アート以外の「趣味」として聞いたつもりだったが、そんな答えを返してくるところがなんともまたやなぎらしい。

(文中敬称略)

Text by Sei koike, Photo by Akiko Tohno
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