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『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
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© Bill Cooper

マシュー・ボーンの「白鳥の湖」がニューヨークに帰って来た!12年前にブロドウ
ェイで上演されたあの伝説の現代ダンス劇が4週間のみ特別に上演されているのだ。待
ちに待った再上演にニューヨーカー達は熱狂し、シアターは毎日満員御礼となっている
そうだ。

イギリスの最も成功した振付師また舞台監督の1人に数えられるマシュー・ボーン。
1986年にダンス学校卒業後に友人等と共に「アドベンチャーズ・イン・モーション
・ピクチャーズ(現在はニュー・アドベンチャーズ)」という舞踏団を結成し、翌年か
ら振付師兼監督として活躍し始め、今までに「ザ・カーマン」「プレイ・ウィズアウト
・ワーズ」「シザーハンズ」等を手掛け、ローレンス・オリヴィエ賞やトニー賞受賞の
経験を持つ。

マシュー・ボーンと言えば、「白鳥の湖」と言われる程、高い人気を誇る彼の手掛けた
「白鳥の湖」。1995年にロンドンで初演を終えてから15年間ノンストップで世界を駆
け巡り、鍛え上げられた体を持つ男性のみが白鳥に扮している事がやはり一番大きなイ
ンパクトを与え観客の既成概念を覆してきた。男性だからこそ、彼らのダンスは華麗で
かつパワフルで、彼らが舞台で激しいパフォーマンスしているときは、汗が飛び散って
いるのも見えるくらいだ。

切ない古典バレエにコミカルな演出を加え、物語をあくまでもスピーディに見せてゆ
く。またアルフレッド・ヒッチコックの「鳥」からアイデアを取り入れる等、独特の解
釈で新しく構築された本作は、ロマンスを描いた元々バレエとは違い、母の愛を受けず
に育った主人公の王子が、なりたくてもなれない「彼自身の理想像」を一羽の白鳥に見
出し、息の詰まる様な絶望的な現実の中で苦しむ姿を描き出している。

1995年に本作の上演が始まって間もない頃、「これは本物ではない」という意見を持
つ人も少なくなかった。ところが時の経過とともに、この作品を観た事がきっかけでダ
ンサーに憧れる人もいるように、人々に夢やインスピレーションを与える重要な芸術と
して認められる様になった。今回のニューヨーク公演も毎晩観客全員が最後にスタンデ
ィングオベーションを行い、ショーへの感動を表すという。この15年の間に人々の心
を揺さぶり続けモダン・クラシックという新ジャンルを打ち立てたマシュー・ボーンの
白鳥の湖。今秋最も見逃す事の出来ないエンターテイメントの1つだ。

Text by Taiyo Okamoto
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THE WORKS’ 35th ANNIVERSARY SEASON

@ The Joyce Theater
175 Eighth Avenue (at 19th Street), NYC

June 9 – 14, 2009
Tue at 7pm; Wed and Sun at 7:30pm; Thu, Fri and Sat at 8pm; and Sat and Sun at 2pm

Tickets: $49, $35, $19 (Joyce Members $44, $26)
(Ticket prices subject to change based on demand.)
JoyceCharge: 212-242-0800

ガラ特別公演:ガラ特別プログラム、6月9日(火)7:00pm開演
プログラムA:「Tub」(再演作品),「Bench」(世界初演),「Momentum」(2005年初演)
6月10日(水)7:30pm〜、12日(金)8:00pm〜、13日(土)2:00pm〜、14日(日)7:30pm〜
プログラムB:「Edge」(2007年初演),「Aria」(2008年初演),「Tangle」(世界初演),「Walk It Off」(世界初演)
6月11日(木)8:00pm〜、13日(土)8:00pm〜、14日(日)2:00pm〜

Company website
フランス演劇界の巨匠、ニコラ・バタイユ氏が28日、パリ市内で癌のために死去。享年82歳。フランスで初となる不条理劇『禿の女歌手』の演出をはじめ、パリの小劇場演劇の中心となったユシェット座の座長として長年に渡ってフランス演劇界を牽引した。日本では、寺山修司らとも交流があったほか、NHKのフランス語講座に講師として出演。2001年には勲四等旭日小綬章を受章するなど、日仏の文化交流に多大な足跡を残した。この偉大な演出家に追悼の意を表し、COOLが今年3月にユシェット座にて行った貴重なインタビュー(COOL Vol.16に掲載)を、本ブログにて特別公開します。



「ニコラ・バタイユ〜前衛演劇と共に歩んだ60年〜」


パリの学生街カルティエ・ラタンに86席の小さな劇場、ユシェット座がある。2007年、この劇場でウジェーヌ・イヨネスコの「禿の女歌手」が公演50周年を迎えた。初公演から現在もなお演出を続けるニコラ・バタイユ氏が、今まで経験した数々の熱い冒険について語ってくれた。

1926年パリに生まれたバタイユ氏は幼い頃、祖母に連れられて観たオペレッタに感銘を受けた。17歳の頃は、第2次世界大戦真っ只中で、フランスはドイツ占領下に。国立教育機関に通う学生はドイツでの強制労働が免除されたため、国立高等演劇芸術技術学校に通った。ほかにも映画会社パテが経営する俳優養成学校や俳優ルネ・シモンが創立した私立の演劇学校Cours Simonで演技を学んだ。Cours Simonではのちにフランスを代表する歌手となるジュリエット・グレコ、俳優のジェラール・フィリップと出会い、サン・ジェルマン界隈に集まっては演劇・映画について議論を交わした。ある日、詩人・脚本家のジャック・プレヴェールと知り合い、彼が脚本を手がけたマルセル・カルネの映画「天井桟敷の人々」(1945)へのエキストラ出演を勧められる。

「当時の撮影は今とは全く違ったものだった。使っていたカメラや機材などももちろん今と違うけど、映画のセットのために道を作ったりして、とても大掛かりなものだった。現在、『古きよき時代の映画』と呼ばれる作品が映し出す風景や建物は何もかも徹底して映画のためだけにつくられたんだ」

バタイユ氏にはほかにも著名人との思い出がある。19歳の時、憧れの芸術家ジャン・コクトーの家を友人と一緒に突然押しかけた。快く迎えてくれたコクトーが告げた「演劇はマジックだ !」ということばは心の奥底まで響いた。その後、ルイズ・ララとエドゥアール・オータンの前衛演劇から強い影響を受けたバタイユ氏は演劇の演出に興味を持つ。1948年にアルチュール・ランボーの散文詩集「地獄の季節」を演出して、青年演劇コンクール前衛賞を受賞する。

「もともと俳優を目指していたので、まさか自分がのちに演出家とまわりから認識されるなんて夢にも思わなかった。偶然ってものすごい力を持っている。ボクは前衛演劇の演出家として注目された」

その後、イヨネスコの書いた「禿の女歌手」に衝撃を受けたバタイユ氏は仲間たちとこの演目を上演する。題名を見て、髪のない女歌手が登場すると観客は予測するだろう。しかし、その考えは覆される。「英国の肘掛け椅子の一つに腰かけた英国人のスミス氏は、英国の炉端で、英国のスリッパを履き、英国のパイプをくゆらせ、英国の新聞を読んでいる」といったような、言葉遊びとも捉えられる台詞が続き、スミス夫妻とマーティン夫妻の全く噛み合わない会話がただ繰り広げられるのだ。演目が象徴するように「禿の女歌手」には脈絡がなく、当時の演劇の理論を完全に打ち砕いたこの芝居は2007年、ユシェット座で公演50周年を迎えた。

「『禿の女歌手』を初めて読んだ時、これは絶対に手がけたいと強く思った。この作品で成功したいとは思わなかった。それよりもこんなに惹かれる作品を実際に作り上げたかった。はじめのうち批評は否定的なものばかり。でも7年くらい経って、『授業』や『椅子』などイヨネスコのほかの演目が徐々に注目されたこともあって、評価され始めたんだ」

『禿の女歌手』を世に生んだイヨネスコはのちにサミュエル・ベケットと並んで1950年を代表するフランスの不条理演劇の劇作家となった。

「1950年代というのはフランスで演劇が最盛期を迎えた時期。また不条理演劇というあたらしいジャンルが誕生した時代だ。当時はカルティエ・ラタンだけでも劇場が7つあった。今はユシェット座しか残ってないけどね。ユシェット座での公演は50周年だけど、実は『禿の女歌手』の上演を始めたのは1950年。今はもうなくなってしまった同じカルティエ・ラタンにあった劇場でね。だから今年で58年が経つ。ボクはイヨネスコの才能を発掘したことで脚光を浴びた。でも他方では、モリエールやコルネイユといった古典劇を演出する機会が全くなかったのも事実だ。みんなからニコラ・バタイユ=イヨネスコとレッテルを貼られたからね」

1967年、「禿の女歌手」の公演10周年の際に、ユシェット座は日本に招待され、国立劇場で上演された。フランスの小さな劇場が来日公演することは当時ごく稀なことだった。そしてバタイユ氏は日本の演劇・文化に魅せられて、日本は彼にとって第2の故郷となる。

「日本では1960年代、唐十郎の状況劇場や鈴木忠志の早稲田小劇場、そして寺山修司の天井桟敷などの新しい演劇が生まれ、大変興味深い活動をしていた。ボクは彼らの虜になった。ユシェットの日本公演が終わっても、結局ボクは4年間滞在してさまざまな演劇を観た。その間、NHKのフランス語教育番組の脚本を書いて出演もしたし、東京日仏学院でのアントナン・アルトーの「ヴァン・ゴッホ」など数多くの演出も手がけた。1971年にフランスに帰国した後も、1年のうち6ヶ月は日本に滞在して、演出の仕事をするという生活を1983年まで続けた。宝塚歌劇団の演出など、非常にたくさんの仕事をした。去年は日本での活動の40周年を記念して、日本で1ヶ月過ごしたんだ」

1960年代に日本で誕生したアンダーグラウンド(アングラ)演劇の中でも、「天井桟敷」の主宰である故・寺山修司氏のへの思い入れは強い。

「寺山さんはプレヴェールやコクトー同様にボクにとって大変重要な人だった。1967年東京で天井桟敷の『花札伝綺(でんき)』を観たときほど興奮したことはない。美輪明宏主演の『毛皮のマリー』も観た。作品、そして彼の才能に惹かれて、フランスでも彼が有名になってほしいと願って1971年にパリで『花札伝綺(でんき)』を演出した。観客はものすごいショックを受けていたよ。当時フランス人にとって、日本は別の惑星に位置するかのごとく、未知の国だった。そして一部の知識人を除いて、フランス人には日本に関する知識が全くなかった。ヤクザの世界を描いたこの演劇を観ても、ヤクザ自体誰も知らない。当時、歌舞伎や能もまだ知られていない中で、日本のアングラ演劇の演目をフランス人が演出することなんて、フランスの演劇界では当時考えられないことだったと思う。1991年には寺山さんの4つの演目の抜粋をボクが組み合わせてつくった作品『寺山の夕べ』を演出した。でも『花札伝綺(でんき)』から20年経った1991年でも寺山さんの作品は観客にとってショッキングなものだったようだね」

日本に滞在中、バタイユ氏はアングラ演劇の演出家以外にも数多くの出会いがあった。中でも、故・観世(かんぜ)寿夫(ひさお)はパリのユシェット座で「禿の女歌手」を鑑賞し、心を打たれ、バタイユ氏が来日した際、能の稽古に誘った。

「5ヶ月間の稽古を通して、観世さんからは能のエスプリそのものを学んだ。能は本当に素晴らしいと感じたけど、そのテクニックなどを自分の演出に直接取り入れようとは全く思わなかった。それを試みたヨーロッパの演出家は何人かいるけどね。でもボクはヨーロッパの演劇とあまりにも違いすぎると思う。観世さんの稽古を通して、能の精神世界を学んだことはボクにとって大変豊かな経験だった」

ブリジッド・バルドーやマルチェロ・マストロヤンニと共演したルイ・マル監督の「私生活」(1962)をはじめ、バタイユ氏は数多くの映画にも出演した。しかし、彼は演出家として生きることに大きな魅力を感じる。

「ボクはコクトーの言った『マジック』という言葉が大好きだ。素晴らしいと思う演出家は、ボク以外では(笑)、ジョルジョ・ストレーレルやダリオ・フォー。彼らの演出はマジックやファンタジーがある。フョードル・ドストエフスキー作品の演出はファンタジーそのもの。演劇はやはりマジックでなければいけない。幕が開いて、舞台が現れて、そこでは日常生活とは別世界が広がっている。人間にとって夢を描くことはとても大切。それと、好奇心を持つこともすごく重要なんだ。好奇心を欠くことでさまざまな可能性を狭めてしまう。特に芸術において、好奇心を持ってチャレンジすることは大変重要なことなんだ」

「今後の予定は『禿の女歌手』の演出を続けることと、時々この演目でマーティン氏の役を演じ続けること。ボクは今年でもう82歳だからね。歳を取って『カワイソウ、ボクチャン』」最後のひと言は日本語で、言葉とは裏腹にいたずらっこのように微笑むバタイユ氏。今夜も劇場は満席だ。
バタイユ氏は衣装に身を包み、観客の待つステージへと向かった。


(インタビュー、写真=依田千穂)
映画『硫黄島からの手紙』で野崎一等兵を演じた俳優・松崎悠希(25)。世界の舞台で実力派俳優としての名をあげるべく渡米。持ち前のポジティヴ精神で幾多の困難を乗り越え、夢に向かってまい進する彼の素顔に迫った。



--- 波瀾万丈なアメリカ生活の幕開け ---

巨大スクリーンの中で迫真の演技を見せる松崎が演技を学び始めたのは7歳の頃。母親が運営する全国組織である子供演劇「LABO」に11年間所属し、子供向けコメディーなどに出演してきた。2000年7月、彼はアメリカの有名学校で演技を学ぶために渡米する。しかし目的地のバージニア州に向かうも、応募資格から外れていたため受け入れを拒否される。次に移動したニューヨークでは、滞在先で全財産を盗まれるというハプニングに見舞われ一文無しになってしまう。それからしばらくの間、松崎はタイムズ・スクエア駅周辺でストリート・パフォーマーとして糊口をしのいだ。

「渡米後間もなかったので英語は当然ろくに話せませんでした。だから日本語の歌を歌いながら踊っていたんです」

言葉も通じず、食べ物や寝る場所も全く保証されなかったNYでの生活は、彼を精神面で一層強くした。そしてある時、インディペンデント映画『ブラックニンジャ』のオーディションに参加するためにペンシルバニアを訪れる。そこで松崎は見事に600人を抜き、準主役の座を射止めた。

「ストリートでパフォーミングしていた経験のお陰か、今でもオーディションなどでも全く緊張はしませんね。基本的にどんな事にも動じません」

その後、松崎は映画の都ハリウッドへと活動の拠点を移し、コミュニティ・シアターでのパフォーマンスや、インディペンデント映画への出演など、意欲的に俳優としての活動を続けた。そして2003年、トム・クルーズ主演の映画『ラストサムライ』の官憲役で、彼はついにメジャーデビューを果たしたのだ。


--- 「硫黄島からの手紙」で野崎一等兵として出演 ---

クリント・イーストウッド監督による映画「硫黄島からの手紙」。そのキャスティングはある日突然決まった。

「イーストウッド監督が野崎一等兵の役で僕を気に入ってくれて、キャストされたのが撮影の2週間前。台本を渡されたのは撮影の2日前でした」

詳細を聞かされないまま撮影に入った松崎は役作りに没頭する。その意気込みは並大抵のものではなく、食生活まで変えてしまうというストイックなものであった。

「野崎になりきるために、家族の写真や彼が働いていた洋品店の写真を実際に自分で想像して作ったんです。野崎という人間が生まれてからどういう人生を送ってきたかを細かく書き出してみたりもしました。さらに食べ物がないという時代に生きるとはどういう事か、それを実際に再現するために5週間ほとんど何も食べない生活を送ってみたんです。不思議なことに、始めの1週間を超えるとお腹が減らなくなり、2週間過ぎた頃には何も食べなくても大丈夫になりました。それでいて、傍から見たら何も口にしていないとは分からないくらい普通でいられるんです。時々めまいがしたりする事はありましたけどね(笑)そこまでやって初めて戦時中の人の気持ちに共感する事ができたんです」

洞窟内でのシーンを演じるために、滞在先のホテルではバスルームの電気を消したまま冷たい床に座り込み、爆撃音が入ったCDを聞きながら実際の洞窟をイメージしたりもした。

「洞窟内での雰囲気を再現して体験したら、あとは忘れてもいいんです。覚えて演技するのではなく、過去の経験から自然と出てくる行動を演技の中でもすればいい」

そんな松崎の演技に対する情熱は、イーストウッド監督の目にもしっかりと焼き付いていた。監督自身の提案によって野崎一等兵が登場するシーンが次々と付け足されていったという。撮影当時のイーストウッド監督と現場の雰囲気を松崎はこう振り返る。

「実はイーストウッド監督の撮影はリハーサルをほとんどしない。どのシーンもほとんど1テイクで撮り終えるといったユニークなスタイルでした。「演技は一度目が一番光っている」という彼の信条のもとやっていたようです。監督から演技のディレクションは一切受けませんでした。それぞれのシーンで何をするかを軽く説明されてすぐに撮影に入るんです。それだけ役者の演技力を信じてくれているので、プレッシャーもありましたが、とてもやりやすかったですね」

「将来はアメリカ人と同じ土俵で争いたい」と松崎は言う。

「英語での僕の演技を見た人に「この人、日本人だな」と気付かれないようになれれば勝ちですよね(笑)」


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松崎悠希




Interview by Yuka Kawaguchi, Photo by Yoshihiro Makino

沸き上がる歓声、鳴り止まない拍手。大歓声に包まれた会場で、車椅子に乗って舞台下に現れた Fred Benjamin は、ゆっくりと立ち上がって振り向き、片手を上げて笑顔で観客の声援に答えた。2003年の秋、恒例の特別講演で日本に訪れていた Fred Benjamin は、突如脳卒中で倒れ、一時は危篤状態にまで陥った。それから1年半余り、奇跡の復活を遂げた Fred Benjamin の復帰後初の公演は、大成功のうちに幕を降ろした。半年近い入院生活を経て、未だ麻痺が残る身体にもかかわらず、その不屈の精神で今回の公演の全ての振付けを行ったFred Benjamin。彼のダンスに対する情熱と、公演に賭けた意気込みについて本人に語ってもらった。

COOL:まず、あなたのプロフィールについて教えてください。

Fred Benjamin:名前は Fred Benjamin。ボストンはマサチューセッツ出身だ。幼い頃にダンスを始めて、さらにキャリアを積むために1962年にNew Yorkに移って以来ずっとここに住んでいるよ。

C:ダンスを始めたきっかけは何だったのですか?

FB:4歳の頃、僕の姉達がダンスを習っていてね。母親は彼女達をレッスンに連れていくのに僕も一緒に連れていかなきゃいけなかった。僕は末っ子だったしね、目を離しちゃいられなかったんだね。いたずらっこだったしな(笑)。それで結局僕もダンスクラスに入る事になった。それが全ての始まりだったよ。

C:本当に長い間ダンサーとして活動をされたわけですが、ダンスをするにあたって大切な事とはなんでしょう?

FB:バレエクラスでのトレーニングは僕にとって本当に大事だった。バレエのトレーニングのおかげでこれだけ長いキャリアを続ける事ができたといってもいい。ニューヨークに移って来てからもバレエを習っていたし、その後は『Hello Dolly』や『Promises Promises』というミュージカルもやった。『Hello Dolly』を演っていた頃には、自分のダンスカンパニーを始めて実験的なダンスも始めたんだ。それは1968年の事だった。とにかくずっとダンスを続けてきたんだ。

C:では、あなたにとってダンスとは何ですか?

FB:難しい質問だな。ダンスは僕が生涯続けられるものだし、ダンスこそ僕を前に進めてくれる。それほど僕にとって大切なんだ。ダンスがないとおかしくなっちゃうだろうね(笑)。

C:今回の公演では“Destiny’s Child”や“R. Kelly”といった最近のR&Bから、モダンジャズまで様々な音楽を使用されていますが、これは全てご自分でお選びになるのですか? また、それらはどうやって選ぶのでしょうか?

FB:曲は全て自分で選ぶよ。音楽を聴くと、音楽が僕に話しかけて来るんだ。ダンスとしてどうしたら良いか伝わってくるんだよね。

C:歌詞が話しかけてくるのですか? それとも音楽がですか?

FB:主に音楽だね。そのアーティストが伝えようとしているもの自体がだ。言葉だけじゃなくて、声そのものとかね。

C:ではインスピレーションは一体どこから得ているのでしょうか?

FB: いやあ、わからないな(笑)!とにかくインスピレーションがそこにあるんだ。音楽を聴くと頭の中に絵が見えるんだよ。それでこの曲をこういうダンスにしようって自然にわかるんだ。時には曲を聴いても何も見えてこない時もある。それは単に音楽を音楽として楽しむ瞬間だよね。僕にとって音楽を聴く事はほとんど仕事みたいなものだけど、自分で無理に絵を見つけ出す事はできないんだ。でも絵が見えてくる時は自分でコントロールなんてできない。とにかく向こうからやってくるんだ。

C:それは感情や気持ちとしての絵が浮かんで来るのですか? それとも実際にダンサーの体の動きが見えてくるのですか?

FB:そうだな…音楽が僕に絵を描いてくれるみたいなものだな。そしてその絵を今度は僕が観客に舞台で描いてみせるんだ。ダンスとしてね。

C:日本で脳卒中で倒れられてから、手術、治療、休養という長い期間ダンスから距離を置かれていたわけですが、その前と後では、ご自身や振り付けに何か変化はありますか?

FB:本当に長い期間だった。でも、何も変化はないよ。僕の中でダンスは常に続いていた。僕は同じ人間だしね。ただ少し変わった事といえば、今はもっと精神的に活動するようになった。というのも、以前は体を動かして振り付けをしていたし、そうすることによって自分が何を求めているかダンサー達に伝えられたけれど、今は(身体が不自由だから)言葉にするしかないからね。だからどんな振りを付けたいのかをダンスメンバーに伝えるために、言葉付きの絵を描く事も覚えたよ。自分だけの特別な言葉も作ったさ。そうやってダンサーに振り付けたけれど、やっぱり全てを言葉で伝えることはできなかったかな。それでも、今では本当に幸せに思っているよ。

C:今回のショーは復帰後初の作品ですが。

FB:とにかく幸せだよ。そして僕の為にまた戻って来てくれたダンサー達にも本当に感謝している。

C:あなたのショーで踊るダンサー達も、黒人、白人、アジア人と人種を問わず色々な人がいますね。彼らを初めとして、世界中にいるダンスをする若い人達についてどう思いますか?

FB: 彼らは本当に、本当に勇敢だと思うよ。なぜならダンスの世界は厳しいからね。それを克服して、実現させるのは非常に大変なことだ。だから新しいダンサー達には敬意を表するよ。それに僕は人種には興味はないんだ。僕が興味あるのは、ダンサーが持つダンスに対する愛情、ただそれだけなんだ。

C:今後のプランについて教えてください。

FB:とにかく常に仕事を続けていきたいと思っている。今までたくさんダンスの仕事をしてきたし、脚本も書いたりもした。芝居の脚本だね。でも書くのもいいけど、やっぱりダンスほどエキサイティングで満足を得られる仕事はなかったから、やっぱりこれからもダンスをやっていくよ。



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Fred Benjamin(フレッド・ベンジャミン)
1944年マサチューセッツ州ボストン生まれ。4才よりダンスをはじめる。1963年〜66年Talley  Beatty Companyで踊り、Talley Beattyの影響を強く受ける。その後、ニューヨークに拠点を移し、『The Fred Benjamin Dance Company』を設立。Talley Beattyのモダンにバレエの要素を加えた“バレエ・ジャズ”という新しいジャンルの確立に貢献した。



text by Takuya KATSUMURA, photo by Noho KUBOTA
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