『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ギャラリーの壁面を覆い尽くすCGを駆使した巨大な作品「エレベーターガール」。映画のセットのように丹念に作り込まれた仮想空間の中で、幾人もの同じ制服姿のエレベーターガールたちが思い思いのポーズをとる。老婆の顔をした少女たちが演じる、ユーモラスな中に残忍さを覗かせる自己の心象風景を銀塩写真で切りとった作品「フェアリーテイル」シリーズは、まるでお化け屋敷にでも迷い込んだかのような印象を見る者の脳裏に強烈に焼きつける。そうかと思えば「マイグランドマザーズ」シリーズでは、モデルに特殊メイクを施し、モデル自身が思い描いた「50年後の自分がいる未来の世界」を様々なかたちで演出している。
今年ニューヨークで初の大規模な個展を行なった京都在住の美術作家、やなぎみわ。やなぎの自己表現への貪欲なまでの渇望と制作意欲、美術という表現手段を駆使する純粋な表現者としてのストイックな姿勢は、アーティストと呼ぶよりはむしろ美術作家と呼ぶほうがピタリとくる。そんなやなぎだが、実は最初から美術作家を目指していたわけではないのだという。
京都市立芸大在籍中は日本の伝統工芸を学んだ。しかし、制作のプロセスがあらかじめ決められた伝統工芸にもどかしさを覚え、大学院に進んでからは布を使ったインスタレーションの制作を始めた。素材を自由に使い、自己表現の可能性を模索しつつ、次々と新しい作品を生み出していった。ところが、卒業を機にやなぎはぱたりと制作を止めてしまう。まるで憑き物が落ちたかのように制作への意欲は急速に失われた。それから3年間、美術史を教える教員としてアパートと教室を往復するだけの日々が続いた。
毎日通勤電車に揺られ、教室で講義をすることだけを繰り返していた自分。閉ざされた日本の社会の中でアイデンティティーを失い、ただ日常を演じ続ける。そんな自分の姿を投影した「エレベーターガール」シリーズ。
もともと学生時代には作品をつくることが日常となっていたやなぎにとって、一切の制作を止めてしまったという事実が、ずっと心の片隅に引っ掛かっていた。その一方で、毎日の通勤途中に通過する交通機関や商業施設、その中でせめぎあう消費と労働、社会の中で演技し続けねばならない人々の行為に興味を抱いた。と同時に、デパートのエレベーターガールに奇妙なシンパシーを感じていた。「エレベーター」という閉ざされた空間の中で日がな一日、昇降、ドアの開け閉め、儀礼的なアナウンスを繰り返す彼女たちの姿に、毎日教室の中で美術史を教える教員としての自分の姿を重ね合わせていた。
「ただ純粋に彼女たちをモチーフとして自分の作品に取り込んでみたいと思った」というひとつの動機が、やなぎの中で燻っていた創作意欲を呼び覚ました。なんのプランも立てず、アートとしての成立云々を考える間もなく、ギャラリースペースを借り、そこへ生身のエレベーターガールたちを持ち込んだ。それがのちにやなぎの最初のシリーズ作となる「エレベーターガール」の始まりだった。
やなぎは、日本の現代社会という閉鎖されたひとつの共同体の中で心地よく生きる術を無自覚のうちに身につけてしまった現代人の倦怠感や陶酔感を、エレベーターガールを通して表現しようとした。しかし実際には、生身の人間を使ったがゆえの本物の「生々しさ」や、自分ではコントロール出来ない予想外の出来事などが、やなぎが思い描いていた人形を並べたような無機的な世界のイメージとはかけ離れた作品にしてしまった。そこから今度は自分の描いたリアリティをコントロールするために、写真などを媒体として使う作風へと移行していった。
海外から日本にリサーチに来ていたキュレーターに見初められ、偶然にもたらされた新たな転機。そして初の海外展への参加。
1996年、キュレーターに勧められるがまま、ドイツで行なわれた大規模な国際展「プロスペクト’96」に参加し海外デビューを飾ったやなぎ。だが本人に当時の海外への意識を問うと意外な答えが返ってきた。「当時はまったく海外のアートシーンを意識したこともなかったですし、美術作家とはどういう者かも知りませんでした。自分の作った作品が売れるということやそれを生業にすることも知らなかった。作品を気にいった人が『あなたの作品を売ってくれないか』と聞いて来ても、その意味が分かりませんでした(笑)」。
近年でこそ、日本も欧米の影響を受けて商業画廊が増え、作品が売れることによって美術作家として生計を立てることができる人も出てきた。美術作家を育てようという風潮や、それ目指す若者たちも国内外を問わず積極的に自分たちを売り込むようになった。しかし90年代当時、日本でギャラリーといえば大半は貸画廊だった。ましてや、やなぎは学生時代、コンテンポラリーなアートシーンとは隔離された伝統工芸の世界に生きていた。そんな状況の中で美術作家としての自覚を持たないままに「マイグランドマザーズ」や「フェアリーテイル」といった新シリーズを次々と発表していった。2000年以降、ヨーロッパではやなぎへの評価はどんどん高まり、ドイツ銀行をはじめとした美術財団などがやなぎの作品を次々とコレクションしていった。
「前の作品の反作用から次の作品が生まれる」。コンセプチュアルな作品から工芸的な作品への回帰。自己の中と外を行き来しながら、制作というやなぎ本来の日常を取り戻す。
「自分の好きなことはあまり長く続けたくないんです」。やなぎは自分が好きなシリーズだった「フェアリーテイル」を意識的に完結させた。それは上手くなることを嫌うからだ。自分の好きなことを続けていくことは当然楽しいことだし技術も向上する。しかし、その魅力に無自覚に囚われているとどんどん閉鎖的になり、いつしかそこに留まってしまう。好きなことだからこそ敢えて続けない。そして「毎回、作品の必然を自分に問いつつ、新しいことには挑戦する」ことが大事だという。
ファンに向けたメッセージを求めると、やなぎは表情を崩して笑った。「よくレクチャーなどに行くと、会場で『前のシリーズが好きだったんですけど、今回のシリーズは全然違う』というようなことを言われるのですが、新しい作品を出すときは作家にとって最も恐ろしく、見る人には最も美味しい瞬間のはず。予定調和で馴れ合わない対話が、作品を通して立ち上がるときなんですよ。」常に新しい出発点を求めるやなぎの作品づくりは決して様式化しない。だからやなぎの新作は常にファンを裏切る。それは美術作家としてのやなぎが持つ魅力のひとつに違いない。そして私たちは、やなぎの新作とその「裏切り」を密かに心待ちにしているのだ。
やなぎに、アート以外にやってみたいことは何かと尋ねると、「身体性を取り戻すような行為や生活に挑戦する可能性はあるかも知れません。今まで少々身体を放ったらかしにしすぎた。もちろん制作につなげるためにね」という答えが返ってきた。アート以外の「趣味」として聞いたつもりだったが、そんな答えを返してくるところがなんともまたやなぎらしい。
(文中敬称略)
今年ニューヨークで初の大規模な個展を行なった京都在住の美術作家、やなぎみわ。やなぎの自己表現への貪欲なまでの渇望と制作意欲、美術という表現手段を駆使する純粋な表現者としてのストイックな姿勢は、アーティストと呼ぶよりはむしろ美術作家と呼ぶほうがピタリとくる。そんなやなぎだが、実は最初から美術作家を目指していたわけではないのだという。
京都市立芸大在籍中は日本の伝統工芸を学んだ。しかし、制作のプロセスがあらかじめ決められた伝統工芸にもどかしさを覚え、大学院に進んでからは布を使ったインスタレーションの制作を始めた。素材を自由に使い、自己表現の可能性を模索しつつ、次々と新しい作品を生み出していった。ところが、卒業を機にやなぎはぱたりと制作を止めてしまう。まるで憑き物が落ちたかのように制作への意欲は急速に失われた。それから3年間、美術史を教える教員としてアパートと教室を往復するだけの日々が続いた。
毎日通勤電車に揺られ、教室で講義をすることだけを繰り返していた自分。閉ざされた日本の社会の中でアイデンティティーを失い、ただ日常を演じ続ける。そんな自分の姿を投影した「エレベーターガール」シリーズ。
もともと学生時代には作品をつくることが日常となっていたやなぎにとって、一切の制作を止めてしまったという事実が、ずっと心の片隅に引っ掛かっていた。その一方で、毎日の通勤途中に通過する交通機関や商業施設、その中でせめぎあう消費と労働、社会の中で演技し続けねばならない人々の行為に興味を抱いた。と同時に、デパートのエレベーターガールに奇妙なシンパシーを感じていた。「エレベーター」という閉ざされた空間の中で日がな一日、昇降、ドアの開け閉め、儀礼的なアナウンスを繰り返す彼女たちの姿に、毎日教室の中で美術史を教える教員としての自分の姿を重ね合わせていた。
「ただ純粋に彼女たちをモチーフとして自分の作品に取り込んでみたいと思った」というひとつの動機が、やなぎの中で燻っていた創作意欲を呼び覚ました。なんのプランも立てず、アートとしての成立云々を考える間もなく、ギャラリースペースを借り、そこへ生身のエレベーターガールたちを持ち込んだ。それがのちにやなぎの最初のシリーズ作となる「エレベーターガール」の始まりだった。
やなぎは、日本の現代社会という閉鎖されたひとつの共同体の中で心地よく生きる術を無自覚のうちに身につけてしまった現代人の倦怠感や陶酔感を、エレベーターガールを通して表現しようとした。しかし実際には、生身の人間を使ったがゆえの本物の「生々しさ」や、自分ではコントロール出来ない予想外の出来事などが、やなぎが思い描いていた人形を並べたような無機的な世界のイメージとはかけ離れた作品にしてしまった。そこから今度は自分の描いたリアリティをコントロールするために、写真などを媒体として使う作風へと移行していった。
海外から日本にリサーチに来ていたキュレーターに見初められ、偶然にもたらされた新たな転機。そして初の海外展への参加。
1996年、キュレーターに勧められるがまま、ドイツで行なわれた大規模な国際展「プロスペクト’96」に参加し海外デビューを飾ったやなぎ。だが本人に当時の海外への意識を問うと意外な答えが返ってきた。「当時はまったく海外のアートシーンを意識したこともなかったですし、美術作家とはどういう者かも知りませんでした。自分の作った作品が売れるということやそれを生業にすることも知らなかった。作品を気にいった人が『あなたの作品を売ってくれないか』と聞いて来ても、その意味が分かりませんでした(笑)」。
近年でこそ、日本も欧米の影響を受けて商業画廊が増え、作品が売れることによって美術作家として生計を立てることができる人も出てきた。美術作家を育てようという風潮や、それ目指す若者たちも国内外を問わず積極的に自分たちを売り込むようになった。しかし90年代当時、日本でギャラリーといえば大半は貸画廊だった。ましてや、やなぎは学生時代、コンテンポラリーなアートシーンとは隔離された伝統工芸の世界に生きていた。そんな状況の中で美術作家としての自覚を持たないままに「マイグランドマザーズ」や「フェアリーテイル」といった新シリーズを次々と発表していった。2000年以降、ヨーロッパではやなぎへの評価はどんどん高まり、ドイツ銀行をはじめとした美術財団などがやなぎの作品を次々とコレクションしていった。
Series of Fairy Tale: Gretel, 2004 ©Miwa Yanagi
「前の作品の反作用から次の作品が生まれる」。コンセプチュアルな作品から工芸的な作品への回帰。自己の中と外を行き来しながら、制作というやなぎ本来の日常を取り戻す。
「自分の好きなことはあまり長く続けたくないんです」。やなぎは自分が好きなシリーズだった「フェアリーテイル」を意識的に完結させた。それは上手くなることを嫌うからだ。自分の好きなことを続けていくことは当然楽しいことだし技術も向上する。しかし、その魅力に無自覚に囚われているとどんどん閉鎖的になり、いつしかそこに留まってしまう。好きなことだからこそ敢えて続けない。そして「毎回、作品の必然を自分に問いつつ、新しいことには挑戦する」ことが大事だという。
ファンに向けたメッセージを求めると、やなぎは表情を崩して笑った。「よくレクチャーなどに行くと、会場で『前のシリーズが好きだったんですけど、今回のシリーズは全然違う』というようなことを言われるのですが、新しい作品を出すときは作家にとって最も恐ろしく、見る人には最も美味しい瞬間のはず。予定調和で馴れ合わない対話が、作品を通して立ち上がるときなんですよ。」常に新しい出発点を求めるやなぎの作品づくりは決して様式化しない。だからやなぎの新作は常にファンを裏切る。それは美術作家としてのやなぎが持つ魅力のひとつに違いない。そして私たちは、やなぎの新作とその「裏切り」を密かに心待ちにしているのだ。
Series of Fairy Tale: The Little Match Girl, 2005 ©Miwa Yanagi
やなぎに、アート以外にやってみたいことは何かと尋ねると、「身体性を取り戻すような行為や生活に挑戦する可能性はあるかも知れません。今まで少々身体を放ったらかしにしすぎた。もちろん制作につなげるためにね」という答えが返ってきた。アート以外の「趣味」として聞いたつもりだったが、そんな答えを返してくるところがなんともまたやなぎらしい。
(文中敬称略)
Text by Sei koike, Photo by Akiko Tohno
PR
※Post new comment