『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
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ピアニストとして世界中から称賛されるフジ子・ヘミング。心の美しい人たちは彼女の奏でる音色に涙を流すという。2008年6月には、パリのサル・ガヴォーで注目の若手ヴァイオリニスト、2002年にフランス文化勲章シュヴァリエを叙勲したローラン・コルシアとの共演を果たすなど、世界中を駆け巡り、数多くのコンサートで人々を魅了させてきた彼女の、猫と犬に囲まれたパリの住まいを訪ねた。
Q.幼少期からピアニストの母・大月投網子さんにピアノを習ったそうですが、ピアニストとして生きていくことはすでにその頃から決めていたのでしょうか?
母はピアノを教えただけで、私がピアニストになることは望んでいなかったの。ピアノを習い続けること、そして一流のピアニストになるまでにはすごくお金がかかるでしょ。スウェーデン人の父は日本にいなかったし、母はピアノ教師としてやっとの思いで家計を支えていた。子供の頃から、まわりの人たちが「フジ子は天才だ!将来、世界中の人に感動を与えるピアニストになる」って言う度に母は苦笑していたわ。子供ながら、周囲の絶賛と母の戸惑いという大きな狭間で、ピアニストになるべきなのか、すごく迷っていた。だから、小さい頃はピアニストになりたいと強く思うことはなかったわね。
Q.29歳でベルリン国立大学へ留学した時、ドイツでどんな生活をされていましたか?
当時の私は無国籍だったから、長い間外国へ行けなかった。赤十字認定の難民として、ドイツ国内でのみ勉強できるという条件で期待を胸に旅立った。でも正直あまりいい思い出はないの。いい人との出会いがなかったし、辛い思いをたくさんしたの。それでもね、今でも忘れられない嬉しい出来事があったわ。一流の新聞が私のコンサートに関する記事を載せて、驚くべき才能と絶賛してくれたの。日本ではそれまで新聞で取り上げられることがまずなかったから。
Q. フジ子さんの代表作と言われているフランツ・リストの「ラ・カンパネラ」を演奏されるとき、どのような思いで弾いていらっしゃるのでしょうか?
練習しているときはいろいろなイメージを思い浮かべながら弾いているけど、演奏中はほかのことを一切考えないで、集中している。聴いてくださる方が感激してくれるような演奏を、と思って無心になって弾いているの。「ラ・カンパネラ」が代表作って言われているけど、私はそう思ってない。若いときに「ラ・カンパネラ」を弾くことはまずなかった。どの作品も私は同じ気持ちで弾いているわ。死に物狂いで弾いたものはきちんと相手に伝わるから。
Q.同じくパリに住んでいたリストとご自分の生き方などになにか共通するものはありますか?
人を助けていることかしら。リストも色々な人を助けたわ。ロベルト・シューマンやフレデリック・ショパンなどを支えた心の広い人。ブダペストに、晩年のリストが聖職者として過ごした教会があるの。そこに行って、彼の人生について、彼の寛大な心について考えたりすることがある。
Q.今まで一番印象に残った演奏は?
どれも印象に残っている。うまくいった時もあるし、満足できなかった時もある。ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインが演奏会の後で舞台を掃除したら、引き落とした音符がバケツ一杯分くらい落ちていた、って言ったでしょ。その気持ち、とてもよく分かるわ。
Q.ピアニストとは、どのようにあるべきだとお考えでしょうか?
音楽は世界に共通する、ことばでは表せないものなの。素晴らしい天才たちがつくった作曲を私は再現しているの。その作曲家の精神を最高のコンディションで再現することがピアニストの役割ではないかしら。心の貧しい人が弾いても人を感激させることはないと私は思うわ。
Q.ニューヨーク同時多発テロ後の被災者救済のために1年間のCDの印税を全額寄付されたり、アフガニスタン難民のためにコンサートの出演料を寄付したりされています。こういった、いわゆるチャリティー活動をはじめるきっかけのようなものはありましたか?
そうね。無名時代から聖路加病院に行って、ヴォランティアというかたちで患者さんたちの前で弾いていたことかしら。その後NHKで私の関するドキュメンタリー番組が放送されて、1999年2月に私はたった一晩で有名になったの。今思えば、無料リサイタルを聴いてくださった方の中に、ドキュメンタリーの企画につなげてくださった方がいたのかもしれないわね。私は有名になって、収入が入りすぎた。だから、ピアニストとして活動して、人を助けるために収入を寄付することにしたわ。無名時代はお金がなくて困った時期もあった。でもね、今は多くの方に認められて毎日忙しく過ごしている。たまに昔の静かな生活が恋しくなる時もあるのよ。
Q.読書がお好きとのことですが、どのような書物がお好きなのですか。ピアノに影響を与えることはあるのでしょうか?
いろいろな人の自伝をよく読むの。あるとき、こんなことがあったわ。第一次世界大戦中にドイツに生きた20歳のごく普通の女性の日記をたまたまドイツの本屋さんで買ったの。表紙がセピア色でステキだったから気に入ってね。彼女の日常が綴られた日記には、戦時中の家族の苦難や、恋愛、看護婦として戦地で働いた様子などが記録されていて、ものすごく感激した。ある日、その本を飛行機の中に置き忘れてしまって、ことばでは言い表せないほど悔んだわ。特に有名な人の自伝という訳でもないので、絶版になっていて、もう二度と手に入ることはない本。でもね、しばらくして、置き忘れたその本が、親切な人の手から手に渡って世界中を回りまわって自分の手元に戻ってきたの。封筒にいろいろな国のスタンプが押されていてびっくりしたわ。こんなことってあるんだわ、と思って本当に感動した。
Q.クラシック以外で、どんな音楽を聴かれますか?
シャンソンが好きだわ。あまり賑やかすぎる音楽はあまり好きではないの。たまにレストランに行くんだけど、お店の中でかかっている音楽がよく聴こえる席を自然と選んでいることに気づくことがある。
Q.知的好奇心はアーティストに欠かせないものだと思いますか?
ピアニストになりたい、音楽家になりたい、と思って音楽学校に通っていることに満足していてはいけないのではないかしら。映画館に行ったり、歌舞伎を観に行ったり、とにかくあらゆるものを自分の目で見て、肥やしにすることが大事だと思うの。そうでないと、人を感激させるような演奏家にはなれないわ。
Q.小さな頃から絵を描いていたそうですが、当時はどんな絵を描くのがお好きでしたか?
はじめはお人形さんの絵が多かったわ。小学校の時、校内で一番うまいと褒められて、すごく嬉しかったのをよく覚えている。絵の技術を習ったことなんて一度もない。好きだから描いている、それだけなの。
Q.2007年12月~2008年1月にかけて、パリのサンジェルマン界隈のギャラリー街にあるアトリエ・ヴィスコンティでフジ子さんの個展が開かれました。画家としても活動されているフジコさんにとって、絵と音楽はどのようなつながりを持っていますか?
素晴らしい感受性を持っている人は私の絵と音楽を同じように認めてくれるの。若い時というのは、自分の才能に気づかないことがある。まわりがいくら才能を認めてくれても当の本人にはピンと来ていないの。だんだん経験を積むと、ほかの人よりも優れているのかどうか分かってくる。ピアノと同じように、絵の才能もみんなに認められようとして、ハガキ一枚一枚に違う絵を描いて世界中に送ったの。有名な指揮者や演奏家たちに。そうしたら、私のピアノを認めてくれている人たちはみんな絵に感激して、とても嬉しかったわ。それとね、絵って好きか嫌いか、それだけだと思うの。絵がどうあるべきかなんて誰も知らないのよ。理論じゃないの。ある日、下北沢を歩いていたら、若い女性に声をかけられて、「私は音楽のことは分からないけど、フジ子さんの絵が一番好きです」って言ってくれたの。すごく嬉しかったわ。賞などを取ることよりも、一番好きという気持ちで私には充分、それだけでいいの。
Q.昔からパリに憧れていたそうですが、どんなところに魅力を感じるのですか?
パリに憧れていたのは、素晴らしい芸術家が集まった場所から。大好きなモディリアーニやロートレックは売れない絵を描いていた。彼らは優れすぎていたから認められなかったって私は信じている。ゴッホだってゴーギャンだって売れなかった。彼らの伝記を読んですごく勇気をもらったわ。元牧師だったゴッホは貧しい生活をしていたのに、ベルギーで大洪水があったときに、あるだけのお金を出して支援をしたの。素晴らしい人生だと思うわ。
それとね、パリは芸術の都と言われているけど、本当だなと思う。パリジャンたちもそうよ。家にいる時、窓から道ゆく人を眺めるのが好きなんだけど、ステキな人が歩いている。窓から見下ろしているので顔ははっきり見えないけど、教養があると姿に現れるのよ。そういう人を見ると、その人にしかない人間の温かみのようなものを感じるの。その度に生きていてよかった、と思う。さまざまな影響って、ものから人へよりも、人から人への方が大きいと思うわ。あとはね、パリの好きなところは、見ず知らずの人でも目が合うと、にこっと笑うところが好き。
Q.恋すること、恋の力は芸術に大きな影響を与えるのでしょうか?
どうなのかしらね。失恋するとピアノが上手くなるってよくいうけど、まあ本当かもね。恋をしていると、酔っ払っているみたいな状態じゃない?バカになっちゃう。でもね、恋もしたことがない人のピアノってはたして人を感動させられるかしら?
Q.芸術とはどんなものとお考えですか?
美しいものを追い求めること。それと教養を高めていかないともといいものがつくれない。
偽者か本物か見極める目を養っていくことも大切ね。
Q.今までのフジ子さんの人生を支えてきた「言葉」や思い出のものは?
いっぱいあるわ。中でも旧約聖書のハバクク書2章3節、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。有名になる1ヶ月前に、ある教会に行って、神様から預言者ハバククへのこのお告げが書かれた小冊子をもらったの。いつか才能を認められる日が来る、だからそれまで辛抱するのだ、という神様からのメッセージだと思ったわ。今でもその冊子は大切に持っているの。神様は私にさまざまな苦労も含めて、いろいろな経験をさせてくださったのだ、って後で思ったわ。今までの人生で、どれだけ無駄な時間を費やしたのだろう!なんて思ったこともあったけど、結局全て私の糧になったの。本当に一生懸命頑張ったことは、無駄になんてならないのよ。人間って100%完璧な人なんて一人もいない。ある人はこんなことが得意で、また別な人は違うことで長けている。みんなの力が合わさると強くなるの。
Q.今後のご予定を聞かせていただけますか?
新しい芸術家が現れて、一緒に演奏したいと言ってくれているから、楽しみなことがいっぱい。新しい音楽が次々に誕生して、クラシック離れが進む中、多くの皆さんが私の演奏を聴きたいと思ってくれるのが何よりも嬉しいの。
Q.幼少期からピアニストの母・大月投網子さんにピアノを習ったそうですが、ピアニストとして生きていくことはすでにその頃から決めていたのでしょうか?
母はピアノを教えただけで、私がピアニストになることは望んでいなかったの。ピアノを習い続けること、そして一流のピアニストになるまでにはすごくお金がかかるでしょ。スウェーデン人の父は日本にいなかったし、母はピアノ教師としてやっとの思いで家計を支えていた。子供の頃から、まわりの人たちが「フジ子は天才だ!将来、世界中の人に感動を与えるピアニストになる」って言う度に母は苦笑していたわ。子供ながら、周囲の絶賛と母の戸惑いという大きな狭間で、ピアニストになるべきなのか、すごく迷っていた。だから、小さい頃はピアニストになりたいと強く思うことはなかったわね。
Q.29歳でベルリン国立大学へ留学した時、ドイツでどんな生活をされていましたか?
当時の私は無国籍だったから、長い間外国へ行けなかった。赤十字認定の難民として、ドイツ国内でのみ勉強できるという条件で期待を胸に旅立った。でも正直あまりいい思い出はないの。いい人との出会いがなかったし、辛い思いをたくさんしたの。それでもね、今でも忘れられない嬉しい出来事があったわ。一流の新聞が私のコンサートに関する記事を載せて、驚くべき才能と絶賛してくれたの。日本ではそれまで新聞で取り上げられることがまずなかったから。
Q. フジ子さんの代表作と言われているフランツ・リストの「ラ・カンパネラ」を演奏されるとき、どのような思いで弾いていらっしゃるのでしょうか?
練習しているときはいろいろなイメージを思い浮かべながら弾いているけど、演奏中はほかのことを一切考えないで、集中している。聴いてくださる方が感激してくれるような演奏を、と思って無心になって弾いているの。「ラ・カンパネラ」が代表作って言われているけど、私はそう思ってない。若いときに「ラ・カンパネラ」を弾くことはまずなかった。どの作品も私は同じ気持ちで弾いているわ。死に物狂いで弾いたものはきちんと相手に伝わるから。
Q.同じくパリに住んでいたリストとご自分の生き方などになにか共通するものはありますか?
人を助けていることかしら。リストも色々な人を助けたわ。ロベルト・シューマンやフレデリック・ショパンなどを支えた心の広い人。ブダペストに、晩年のリストが聖職者として過ごした教会があるの。そこに行って、彼の人生について、彼の寛大な心について考えたりすることがある。
Q.今まで一番印象に残った演奏は?
どれも印象に残っている。うまくいった時もあるし、満足できなかった時もある。ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインが演奏会の後で舞台を掃除したら、引き落とした音符がバケツ一杯分くらい落ちていた、って言ったでしょ。その気持ち、とてもよく分かるわ。
Q.ピアニストとは、どのようにあるべきだとお考えでしょうか?
音楽は世界に共通する、ことばでは表せないものなの。素晴らしい天才たちがつくった作曲を私は再現しているの。その作曲家の精神を最高のコンディションで再現することがピアニストの役割ではないかしら。心の貧しい人が弾いても人を感激させることはないと私は思うわ。
Q.ニューヨーク同時多発テロ後の被災者救済のために1年間のCDの印税を全額寄付されたり、アフガニスタン難民のためにコンサートの出演料を寄付したりされています。こういった、いわゆるチャリティー活動をはじめるきっかけのようなものはありましたか?
そうね。無名時代から聖路加病院に行って、ヴォランティアというかたちで患者さんたちの前で弾いていたことかしら。その後NHKで私の関するドキュメンタリー番組が放送されて、1999年2月に私はたった一晩で有名になったの。今思えば、無料リサイタルを聴いてくださった方の中に、ドキュメンタリーの企画につなげてくださった方がいたのかもしれないわね。私は有名になって、収入が入りすぎた。だから、ピアニストとして活動して、人を助けるために収入を寄付することにしたわ。無名時代はお金がなくて困った時期もあった。でもね、今は多くの方に認められて毎日忙しく過ごしている。たまに昔の静かな生活が恋しくなる時もあるのよ。
Q.読書がお好きとのことですが、どのような書物がお好きなのですか。ピアノに影響を与えることはあるのでしょうか?
いろいろな人の自伝をよく読むの。あるとき、こんなことがあったわ。第一次世界大戦中にドイツに生きた20歳のごく普通の女性の日記をたまたまドイツの本屋さんで買ったの。表紙がセピア色でステキだったから気に入ってね。彼女の日常が綴られた日記には、戦時中の家族の苦難や、恋愛、看護婦として戦地で働いた様子などが記録されていて、ものすごく感激した。ある日、その本を飛行機の中に置き忘れてしまって、ことばでは言い表せないほど悔んだわ。特に有名な人の自伝という訳でもないので、絶版になっていて、もう二度と手に入ることはない本。でもね、しばらくして、置き忘れたその本が、親切な人の手から手に渡って世界中を回りまわって自分の手元に戻ってきたの。封筒にいろいろな国のスタンプが押されていてびっくりしたわ。こんなことってあるんだわ、と思って本当に感動した。
Q.クラシック以外で、どんな音楽を聴かれますか?
シャンソンが好きだわ。あまり賑やかすぎる音楽はあまり好きではないの。たまにレストランに行くんだけど、お店の中でかかっている音楽がよく聴こえる席を自然と選んでいることに気づくことがある。
Q.知的好奇心はアーティストに欠かせないものだと思いますか?
ピアニストになりたい、音楽家になりたい、と思って音楽学校に通っていることに満足していてはいけないのではないかしら。映画館に行ったり、歌舞伎を観に行ったり、とにかくあらゆるものを自分の目で見て、肥やしにすることが大事だと思うの。そうでないと、人を感激させるような演奏家にはなれないわ。
Q.小さな頃から絵を描いていたそうですが、当時はどんな絵を描くのがお好きでしたか?
はじめはお人形さんの絵が多かったわ。小学校の時、校内で一番うまいと褒められて、すごく嬉しかったのをよく覚えている。絵の技術を習ったことなんて一度もない。好きだから描いている、それだけなの。
Q.2007年12月~2008年1月にかけて、パリのサンジェルマン界隈のギャラリー街にあるアトリエ・ヴィスコンティでフジ子さんの個展が開かれました。画家としても活動されているフジコさんにとって、絵と音楽はどのようなつながりを持っていますか?
素晴らしい感受性を持っている人は私の絵と音楽を同じように認めてくれるの。若い時というのは、自分の才能に気づかないことがある。まわりがいくら才能を認めてくれても当の本人にはピンと来ていないの。だんだん経験を積むと、ほかの人よりも優れているのかどうか分かってくる。ピアノと同じように、絵の才能もみんなに認められようとして、ハガキ一枚一枚に違う絵を描いて世界中に送ったの。有名な指揮者や演奏家たちに。そうしたら、私のピアノを認めてくれている人たちはみんな絵に感激して、とても嬉しかったわ。それとね、絵って好きか嫌いか、それだけだと思うの。絵がどうあるべきかなんて誰も知らないのよ。理論じゃないの。ある日、下北沢を歩いていたら、若い女性に声をかけられて、「私は音楽のことは分からないけど、フジ子さんの絵が一番好きです」って言ってくれたの。すごく嬉しかったわ。賞などを取ることよりも、一番好きという気持ちで私には充分、それだけでいいの。
Q.昔からパリに憧れていたそうですが、どんなところに魅力を感じるのですか?
パリに憧れていたのは、素晴らしい芸術家が集まった場所から。大好きなモディリアーニやロートレックは売れない絵を描いていた。彼らは優れすぎていたから認められなかったって私は信じている。ゴッホだってゴーギャンだって売れなかった。彼らの伝記を読んですごく勇気をもらったわ。元牧師だったゴッホは貧しい生活をしていたのに、ベルギーで大洪水があったときに、あるだけのお金を出して支援をしたの。素晴らしい人生だと思うわ。
それとね、パリは芸術の都と言われているけど、本当だなと思う。パリジャンたちもそうよ。家にいる時、窓から道ゆく人を眺めるのが好きなんだけど、ステキな人が歩いている。窓から見下ろしているので顔ははっきり見えないけど、教養があると姿に現れるのよ。そういう人を見ると、その人にしかない人間の温かみのようなものを感じるの。その度に生きていてよかった、と思う。さまざまな影響って、ものから人へよりも、人から人への方が大きいと思うわ。あとはね、パリの好きなところは、見ず知らずの人でも目が合うと、にこっと笑うところが好き。
Q.恋すること、恋の力は芸術に大きな影響を与えるのでしょうか?
どうなのかしらね。失恋するとピアノが上手くなるってよくいうけど、まあ本当かもね。恋をしていると、酔っ払っているみたいな状態じゃない?バカになっちゃう。でもね、恋もしたことがない人のピアノってはたして人を感動させられるかしら?
Q.芸術とはどんなものとお考えですか?
美しいものを追い求めること。それと教養を高めていかないともといいものがつくれない。
偽者か本物か見極める目を養っていくことも大切ね。
Q.今までのフジ子さんの人生を支えてきた「言葉」や思い出のものは?
いっぱいあるわ。中でも旧約聖書のハバクク書2章3節、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。有名になる1ヶ月前に、ある教会に行って、神様から預言者ハバククへのこのお告げが書かれた小冊子をもらったの。いつか才能を認められる日が来る、だからそれまで辛抱するのだ、という神様からのメッセージだと思ったわ。今でもその冊子は大切に持っているの。神様は私にさまざまな苦労も含めて、いろいろな経験をさせてくださったのだ、って後で思ったわ。今までの人生で、どれだけ無駄な時間を費やしたのだろう!なんて思ったこともあったけど、結局全て私の糧になったの。本当に一生懸命頑張ったことは、無駄になんてならないのよ。人間って100%完璧な人なんて一人もいない。ある人はこんなことが得意で、また別な人は違うことで長けている。みんなの力が合わさると強くなるの。
Q.今後のご予定を聞かせていただけますか?
新しい芸術家が現れて、一緒に演奏したいと言ってくれているから、楽しみなことがいっぱい。新しい音楽が次々に誕生して、クラシック離れが進む中、多くの皆さんが私の演奏を聴きたいと思ってくれるのが何よりも嬉しいの。
Interview by Chiho Yoda, Photo by Masatoshi Uenaka
Special Thanks Appel Film, Remi Igarashi
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