『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
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フランス演劇界の巨匠、ニコラ・バタイユ氏が28日、パリ市内で癌のために死去。享年82歳。フランスで初となる不条理劇『禿の女歌手』の演出をはじめ、パリの小劇場演劇の中心となったユシェット座の座長として長年に渡ってフランス演劇界を牽引した。日本では、寺山修司らとも交流があったほか、NHKのフランス語講座に講師として出演。2001年には勲四等旭日小綬章を受章するなど、日仏の文化交流に多大な足跡を残した。この偉大な演出家に追悼の意を表し、COOLが今年3月にユシェット座にて行った貴重なインタビュー(COOL Vol.16に掲載)を、本ブログにて特別公開します。
パリの学生街カルティエ・ラタンに86席の小さな劇場、ユシェット座がある。2007年、この劇場でウジェーヌ・イヨネスコの「禿の女歌手」が公演50周年を迎えた。初公演から現在もなお演出を続けるニコラ・バタイユ氏が、今まで経験した数々の熱い冒険について語ってくれた。
1926年パリに生まれたバタイユ氏は幼い頃、祖母に連れられて観たオペレッタに感銘を受けた。17歳の頃は、第2次世界大戦真っ只中で、フランスはドイツ占領下に。国立教育機関に通う学生はドイツでの強制労働が免除されたため、国立高等演劇芸術技術学校に通った。ほかにも映画会社パテが経営する俳優養成学校や俳優ルネ・シモンが創立した私立の演劇学校Cours Simonで演技を学んだ。Cours Simonではのちにフランスを代表する歌手となるジュリエット・グレコ、俳優のジェラール・フィリップと出会い、サン・ジェルマン界隈に集まっては演劇・映画について議論を交わした。ある日、詩人・脚本家のジャック・プレヴェールと知り合い、彼が脚本を手がけたマルセル・カルネの映画「天井桟敷の人々」(1945)へのエキストラ出演を勧められる。
「当時の撮影は今とは全く違ったものだった。使っていたカメラや機材などももちろん今と違うけど、映画のセットのために道を作ったりして、とても大掛かりなものだった。現在、『古きよき時代の映画』と呼ばれる作品が映し出す風景や建物は何もかも徹底して映画のためだけにつくられたんだ」
バタイユ氏にはほかにも著名人との思い出がある。19歳の時、憧れの芸術家ジャン・コクトーの家を友人と一緒に突然押しかけた。快く迎えてくれたコクトーが告げた「演劇はマジックだ !」ということばは心の奥底まで響いた。その後、ルイズ・ララとエドゥアール・オータンの前衛演劇から強い影響を受けたバタイユ氏は演劇の演出に興味を持つ。1948年にアルチュール・ランボーの散文詩集「地獄の季節」を演出して、青年演劇コンクール前衛賞を受賞する。
「もともと俳優を目指していたので、まさか自分がのちに演出家とまわりから認識されるなんて夢にも思わなかった。偶然ってものすごい力を持っている。ボクは前衛演劇の演出家として注目された」
その後、イヨネスコの書いた「禿の女歌手」に衝撃を受けたバタイユ氏は仲間たちとこの演目を上演する。題名を見て、髪のない女歌手が登場すると観客は予測するだろう。しかし、その考えは覆される。「英国の肘掛け椅子の一つに腰かけた英国人のスミス氏は、英国の炉端で、英国のスリッパを履き、英国のパイプをくゆらせ、英国の新聞を読んでいる」といったような、言葉遊びとも捉えられる台詞が続き、スミス夫妻とマーティン夫妻の全く噛み合わない会話がただ繰り広げられるのだ。演目が象徴するように「禿の女歌手」には脈絡がなく、当時の演劇の理論を完全に打ち砕いたこの芝居は2007年、ユシェット座で公演50周年を迎えた。
「『禿の女歌手』を初めて読んだ時、これは絶対に手がけたいと強く思った。この作品で成功したいとは思わなかった。それよりもこんなに惹かれる作品を実際に作り上げたかった。はじめのうち批評は否定的なものばかり。でも7年くらい経って、『授業』や『椅子』などイヨネスコのほかの演目が徐々に注目されたこともあって、評価され始めたんだ」
『禿の女歌手』を世に生んだイヨネスコはのちにサミュエル・ベケットと並んで1950年を代表するフランスの不条理演劇の劇作家となった。
「1950年代というのはフランスで演劇が最盛期を迎えた時期。また不条理演劇というあたらしいジャンルが誕生した時代だ。当時はカルティエ・ラタンだけでも劇場が7つあった。今はユシェット座しか残ってないけどね。ユシェット座での公演は50周年だけど、実は『禿の女歌手』の上演を始めたのは1950年。今はもうなくなってしまった同じカルティエ・ラタンにあった劇場でね。だから今年で58年が経つ。ボクはイヨネスコの才能を発掘したことで脚光を浴びた。でも他方では、モリエールやコルネイユといった古典劇を演出する機会が全くなかったのも事実だ。みんなからニコラ・バタイユ=イヨネスコとレッテルを貼られたからね」
1967年、「禿の女歌手」の公演10周年の際に、ユシェット座は日本に招待され、国立劇場で上演された。フランスの小さな劇場が来日公演することは当時ごく稀なことだった。そしてバタイユ氏は日本の演劇・文化に魅せられて、日本は彼にとって第2の故郷となる。
「日本では1960年代、唐十郎の状況劇場や鈴木忠志の早稲田小劇場、そして寺山修司の天井桟敷などの新しい演劇が生まれ、大変興味深い活動をしていた。ボクは彼らの虜になった。ユシェットの日本公演が終わっても、結局ボクは4年間滞在してさまざまな演劇を観た。その間、NHKのフランス語教育番組の脚本を書いて出演もしたし、東京日仏学院でのアントナン・アルトーの「ヴァン・ゴッホ」など数多くの演出も手がけた。1971年にフランスに帰国した後も、1年のうち6ヶ月は日本に滞在して、演出の仕事をするという生活を1983年まで続けた。宝塚歌劇団の演出など、非常にたくさんの仕事をした。去年は日本での活動の40周年を記念して、日本で1ヶ月過ごしたんだ」
1960年代に日本で誕生したアンダーグラウンド(アングラ)演劇の中でも、「天井桟敷」の主宰である故・寺山修司氏のへの思い入れは強い。
「寺山さんはプレヴェールやコクトー同様にボクにとって大変重要な人だった。1967年東京で天井桟敷の『花札伝綺(でんき)』を観たときほど興奮したことはない。美輪明宏主演の『毛皮のマリー』も観た。作品、そして彼の才能に惹かれて、フランスでも彼が有名になってほしいと願って1971年にパリで『花札伝綺(でんき)』を演出した。観客はものすごいショックを受けていたよ。当時フランス人にとって、日本は別の惑星に位置するかのごとく、未知の国だった。そして一部の知識人を除いて、フランス人には日本に関する知識が全くなかった。ヤクザの世界を描いたこの演劇を観ても、ヤクザ自体誰も知らない。当時、歌舞伎や能もまだ知られていない中で、日本のアングラ演劇の演目をフランス人が演出することなんて、フランスの演劇界では当時考えられないことだったと思う。1991年には寺山さんの4つの演目の抜粋をボクが組み合わせてつくった作品『寺山の夕べ』を演出した。でも『花札伝綺(でんき)』から20年経った1991年でも寺山さんの作品は観客にとってショッキングなものだったようだね」
日本に滞在中、バタイユ氏はアングラ演劇の演出家以外にも数多くの出会いがあった。中でも、故・観世(かんぜ)寿夫(ひさお)はパリのユシェット座で「禿の女歌手」を鑑賞し、心を打たれ、バタイユ氏が来日した際、能の稽古に誘った。
「5ヶ月間の稽古を通して、観世さんからは能のエスプリそのものを学んだ。能は本当に素晴らしいと感じたけど、そのテクニックなどを自分の演出に直接取り入れようとは全く思わなかった。それを試みたヨーロッパの演出家は何人かいるけどね。でもボクはヨーロッパの演劇とあまりにも違いすぎると思う。観世さんの稽古を通して、能の精神世界を学んだことはボクにとって大変豊かな経験だった」
ブリジッド・バルドーやマルチェロ・マストロヤンニと共演したルイ・マル監督の「私生活」(1962)をはじめ、バタイユ氏は数多くの映画にも出演した。しかし、彼は演出家として生きることに大きな魅力を感じる。
「ボクはコクトーの言った『マジック』という言葉が大好きだ。素晴らしいと思う演出家は、ボク以外では(笑)、ジョルジョ・ストレーレルやダリオ・フォー。彼らの演出はマジックやファンタジーがある。フョードル・ドストエフスキー作品の演出はファンタジーそのもの。演劇はやはりマジックでなければいけない。幕が開いて、舞台が現れて、そこでは日常生活とは別世界が広がっている。人間にとって夢を描くことはとても大切。それと、好奇心を持つこともすごく重要なんだ。好奇心を欠くことでさまざまな可能性を狭めてしまう。特に芸術において、好奇心を持ってチャレンジすることは大変重要なことなんだ」
「今後の予定は『禿の女歌手』の演出を続けることと、時々この演目でマーティン氏の役を演じ続けること。ボクは今年でもう82歳だからね。歳を取って『カワイソウ、ボクチャン』」最後のひと言は日本語で、言葉とは裏腹にいたずらっこのように微笑むバタイユ氏。今夜も劇場は満席だ。
バタイユ氏は衣装に身を包み、観客の待つステージへと向かった。
(インタビュー、写真=依田千穂)
「ニコラ・バタイユ〜前衛演劇と共に歩んだ60年〜」
パリの学生街カルティエ・ラタンに86席の小さな劇場、ユシェット座がある。2007年、この劇場でウジェーヌ・イヨネスコの「禿の女歌手」が公演50周年を迎えた。初公演から現在もなお演出を続けるニコラ・バタイユ氏が、今まで経験した数々の熱い冒険について語ってくれた。
1926年パリに生まれたバタイユ氏は幼い頃、祖母に連れられて観たオペレッタに感銘を受けた。17歳の頃は、第2次世界大戦真っ只中で、フランスはドイツ占領下に。国立教育機関に通う学生はドイツでの強制労働が免除されたため、国立高等演劇芸術技術学校に通った。ほかにも映画会社パテが経営する俳優養成学校や俳優ルネ・シモンが創立した私立の演劇学校Cours Simonで演技を学んだ。Cours Simonではのちにフランスを代表する歌手となるジュリエット・グレコ、俳優のジェラール・フィリップと出会い、サン・ジェルマン界隈に集まっては演劇・映画について議論を交わした。ある日、詩人・脚本家のジャック・プレヴェールと知り合い、彼が脚本を手がけたマルセル・カルネの映画「天井桟敷の人々」(1945)へのエキストラ出演を勧められる。
「当時の撮影は今とは全く違ったものだった。使っていたカメラや機材などももちろん今と違うけど、映画のセットのために道を作ったりして、とても大掛かりなものだった。現在、『古きよき時代の映画』と呼ばれる作品が映し出す風景や建物は何もかも徹底して映画のためだけにつくられたんだ」
バタイユ氏にはほかにも著名人との思い出がある。19歳の時、憧れの芸術家ジャン・コクトーの家を友人と一緒に突然押しかけた。快く迎えてくれたコクトーが告げた「演劇はマジックだ !」ということばは心の奥底まで響いた。その後、ルイズ・ララとエドゥアール・オータンの前衛演劇から強い影響を受けたバタイユ氏は演劇の演出に興味を持つ。1948年にアルチュール・ランボーの散文詩集「地獄の季節」を演出して、青年演劇コンクール前衛賞を受賞する。
「もともと俳優を目指していたので、まさか自分がのちに演出家とまわりから認識されるなんて夢にも思わなかった。偶然ってものすごい力を持っている。ボクは前衛演劇の演出家として注目された」
その後、イヨネスコの書いた「禿の女歌手」に衝撃を受けたバタイユ氏は仲間たちとこの演目を上演する。題名を見て、髪のない女歌手が登場すると観客は予測するだろう。しかし、その考えは覆される。「英国の肘掛け椅子の一つに腰かけた英国人のスミス氏は、英国の炉端で、英国のスリッパを履き、英国のパイプをくゆらせ、英国の新聞を読んでいる」といったような、言葉遊びとも捉えられる台詞が続き、スミス夫妻とマーティン夫妻の全く噛み合わない会話がただ繰り広げられるのだ。演目が象徴するように「禿の女歌手」には脈絡がなく、当時の演劇の理論を完全に打ち砕いたこの芝居は2007年、ユシェット座で公演50周年を迎えた。
「『禿の女歌手』を初めて読んだ時、これは絶対に手がけたいと強く思った。この作品で成功したいとは思わなかった。それよりもこんなに惹かれる作品を実際に作り上げたかった。はじめのうち批評は否定的なものばかり。でも7年くらい経って、『授業』や『椅子』などイヨネスコのほかの演目が徐々に注目されたこともあって、評価され始めたんだ」
『禿の女歌手』を世に生んだイヨネスコはのちにサミュエル・ベケットと並んで1950年を代表するフランスの不条理演劇の劇作家となった。
「1950年代というのはフランスで演劇が最盛期を迎えた時期。また不条理演劇というあたらしいジャンルが誕生した時代だ。当時はカルティエ・ラタンだけでも劇場が7つあった。今はユシェット座しか残ってないけどね。ユシェット座での公演は50周年だけど、実は『禿の女歌手』の上演を始めたのは1950年。今はもうなくなってしまった同じカルティエ・ラタンにあった劇場でね。だから今年で58年が経つ。ボクはイヨネスコの才能を発掘したことで脚光を浴びた。でも他方では、モリエールやコルネイユといった古典劇を演出する機会が全くなかったのも事実だ。みんなからニコラ・バタイユ=イヨネスコとレッテルを貼られたからね」
1967年、「禿の女歌手」の公演10周年の際に、ユシェット座は日本に招待され、国立劇場で上演された。フランスの小さな劇場が来日公演することは当時ごく稀なことだった。そしてバタイユ氏は日本の演劇・文化に魅せられて、日本は彼にとって第2の故郷となる。
「日本では1960年代、唐十郎の状況劇場や鈴木忠志の早稲田小劇場、そして寺山修司の天井桟敷などの新しい演劇が生まれ、大変興味深い活動をしていた。ボクは彼らの虜になった。ユシェットの日本公演が終わっても、結局ボクは4年間滞在してさまざまな演劇を観た。その間、NHKのフランス語教育番組の脚本を書いて出演もしたし、東京日仏学院でのアントナン・アルトーの「ヴァン・ゴッホ」など数多くの演出も手がけた。1971年にフランスに帰国した後も、1年のうち6ヶ月は日本に滞在して、演出の仕事をするという生活を1983年まで続けた。宝塚歌劇団の演出など、非常にたくさんの仕事をした。去年は日本での活動の40周年を記念して、日本で1ヶ月過ごしたんだ」
1960年代に日本で誕生したアンダーグラウンド(アングラ)演劇の中でも、「天井桟敷」の主宰である故・寺山修司氏のへの思い入れは強い。
「寺山さんはプレヴェールやコクトー同様にボクにとって大変重要な人だった。1967年東京で天井桟敷の『花札伝綺(でんき)』を観たときほど興奮したことはない。美輪明宏主演の『毛皮のマリー』も観た。作品、そして彼の才能に惹かれて、フランスでも彼が有名になってほしいと願って1971年にパリで『花札伝綺(でんき)』を演出した。観客はものすごいショックを受けていたよ。当時フランス人にとって、日本は別の惑星に位置するかのごとく、未知の国だった。そして一部の知識人を除いて、フランス人には日本に関する知識が全くなかった。ヤクザの世界を描いたこの演劇を観ても、ヤクザ自体誰も知らない。当時、歌舞伎や能もまだ知られていない中で、日本のアングラ演劇の演目をフランス人が演出することなんて、フランスの演劇界では当時考えられないことだったと思う。1991年には寺山さんの4つの演目の抜粋をボクが組み合わせてつくった作品『寺山の夕べ』を演出した。でも『花札伝綺(でんき)』から20年経った1991年でも寺山さんの作品は観客にとってショッキングなものだったようだね」
日本に滞在中、バタイユ氏はアングラ演劇の演出家以外にも数多くの出会いがあった。中でも、故・観世(かんぜ)寿夫(ひさお)はパリのユシェット座で「禿の女歌手」を鑑賞し、心を打たれ、バタイユ氏が来日した際、能の稽古に誘った。
「5ヶ月間の稽古を通して、観世さんからは能のエスプリそのものを学んだ。能は本当に素晴らしいと感じたけど、そのテクニックなどを自分の演出に直接取り入れようとは全く思わなかった。それを試みたヨーロッパの演出家は何人かいるけどね。でもボクはヨーロッパの演劇とあまりにも違いすぎると思う。観世さんの稽古を通して、能の精神世界を学んだことはボクにとって大変豊かな経験だった」
ブリジッド・バルドーやマルチェロ・マストロヤンニと共演したルイ・マル監督の「私生活」(1962)をはじめ、バタイユ氏は数多くの映画にも出演した。しかし、彼は演出家として生きることに大きな魅力を感じる。
「ボクはコクトーの言った『マジック』という言葉が大好きだ。素晴らしいと思う演出家は、ボク以外では(笑)、ジョルジョ・ストレーレルやダリオ・フォー。彼らの演出はマジックやファンタジーがある。フョードル・ドストエフスキー作品の演出はファンタジーそのもの。演劇はやはりマジックでなければいけない。幕が開いて、舞台が現れて、そこでは日常生活とは別世界が広がっている。人間にとって夢を描くことはとても大切。それと、好奇心を持つこともすごく重要なんだ。好奇心を欠くことでさまざまな可能性を狭めてしまう。特に芸術において、好奇心を持ってチャレンジすることは大変重要なことなんだ」
「今後の予定は『禿の女歌手』の演出を続けることと、時々この演目でマーティン氏の役を演じ続けること。ボクは今年でもう82歳だからね。歳を取って『カワイソウ、ボクチャン』」最後のひと言は日本語で、言葉とは裏腹にいたずらっこのように微笑むバタイユ氏。今夜も劇場は満席だ。
バタイユ氏は衣装に身を包み、観客の待つステージへと向かった。
(インタビュー、写真=依田千穂)
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