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『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
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ロンドン・レインダンス映画祭(正式出品)ストックホルム映画祭(正式出品)パリ・キノタヨ映画祭(最優秀映像賞受賞)など数々の映画祭で高い評価を受けている、安藤モモ子監督初監督作品『カケラ』が、4月3日から渋谷ユーロスペース、ロンドンICAで同時上映、その後全国順次上映される。ロンドンでのプレミア上映、外国特派員協会での上映も行われ、国際的に注目されている安藤監督は「自分なりに一生涯大切に出来る作品にしたかった」と語った。



印象的なセリフが多いですね。脚本はご自分でお書きになったそうですが、作品のアイデアはどこからくるのでしょうか?

―原作は桜沢エリカさんの短編漫画『LOVE VIBES』で、映画にするには(登場人物の)バックグランドが描かれていなかったなど、十分な長さではなかったのですが、逆にその分オリジナリティが出せるのではないかと思いました。「女の子は柔らかいから好き」など、綺麗な言葉で、女の子が共感するような素敵なセリフがいくつかあったので、オリジナルに近いまま、引用させていただいきました。

ヨーロッパで特に高い評価を受けていますがー

―青春時代の8年間をヨーロッパで過ごしたので、その感覚が自然と滲み出ているのではないかなと。ヨーロッパの国々の人達はそれを感じ取って、素直に受け止めてくれているのでは、と思っています。

初めから映画監督を目指していたわけではなかった?

―10歳の時に父親に将来の希望を聞かれた時、意味も分からず、芸術家になりたいと言っていました。その時芸術家という言葉が指す意味は、絵を書く人という認識しかなかったのですが。その気持ちを持ち続けたまま、ロンドンの大学で美術の専攻に進みました。

その後どのようなきっかけで映画の道へ進んだのですか?

―18歳の時に父親(俳優、映画監督の奥田 瑛二)の初映画監督作品『少女~AN ADOLESCENT』の現場に参加し、そこで皆命がけで映画を撮っている場面に遭遇しました。その時「こんなに全てを捧げるような物作りのやり方は、今まで見たことがない」と衝撃を受けました。特に自主映画の現場はすさまじいものがあり、とても怖いと感じましたが「ここで逃げ出したら、一生映画と名の付くものから逃げなくてはいけなくなる」と覚悟を決めました。その作品と共に世界の映画祭を周り「映画というのは世界共通言語で、(制作費が)1千万の映画も、10億、100億かかっている映画も、同じレッドカーペットの上を歩けるという、映画でなければありえない、素晴らしい瞬間に立ち会う事が出来ました。

映画人として父親の影響は大きかったのでしょうか?

―貴重な体験をさせてもらったという意味では感謝しています。生まれたときから映画界という存在が、身近に在り過ぎたので、実は他をあまり知らない。その意味では(映画監督という道を選んだのは)自然な成り行きだったのではないかと思います。

キャスティングについてー

―キャンスティングは、ハルとリコという二人のキャラクターが合わないとだめだったので、ハル役でいい子が来たなと思っても、リコ役の子と合わなかったりなど、試行錯誤を繰り返しました。そこで、実際に近い性格の役や、役者自身が得意とする役とは逆の役をはめ込む、逆キャスティングという方法を試してみる事にしました。ちょうど『愛のむきだし』の撮影を終えた満島ひかりさんは、自己主張の出来ないおとなしい女の子の役をやった事がなかったので、ハルに。中村映里子さんは本当はおっとりした性格なので、強いキャラクターのリコをやってもらいました。

かたせ梨乃さんが印象的ですがー

―かたせさんは本当に素敵な方。極道の女のような役が多いですが、違う彼女を是非見せたいと思いました。演じた「とうこ」という役は、同性愛で、ガンで乳房を失っていて、その失った胸を作ってくれたリコに恋をしている。行き場の無い欠落したものを持っている、難しいキャラクターを、体当たりで表現していただいた。

『カケラ』鑑賞のポイントは?

―女の子二人の恋愛を描く以前に、人としてのアイデンティティをどこに持つかが、青春において大事なこと。「恋ってなんだ愛ってなんだ、そして自分は誰なんだ」という気持ちを描いています。自分の心の隙間を埋める「カケラ」がどこにあるのか、ということを、まず意識することから始めてみたかった。「カケラ」というのは一生埋まらないものであると思う。死ぬ時に 埋まった、と思って死ぬか、埋まらなかった と思って、自縛霊になるか、そいうものだと私は思っています。やっぱり人は欲もあるから、何かを探して生きているのだと思うので、(そう言った意味も含めて)「カケラ」という題にしています。

28歳になったばかりですが、20代だけが持つ事が出来る感性が、映画に反映されていると思いますか?

―とてもあります。初監督というのは最初で最後だし、次からはもう経験をしてしまった後のことになりますよね。初体験というのは、もう二度と訪れない。そこで何が出来るかを必死に探りました。自分の年齢がまだ20代で、役者達も20代。今の自分で表現できる全てのものをぶつけ、出し切る。自分なりに一生涯大切に出来る作品にしたかった。


(インタビュー・写真=植山英美)
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安藤モモ子 1982年生まれ、東京都出身。ロンドン大学芸術学部を次席で卒業。帰国後の2001年、父である奥田瑛二監督作品『少女』で美術、制作進行アシスタントとして修行ののち、同監督のスタッフとして数々の現場を経験。06年には行定勲監督の助監督を務めた。初監督作品となった『カケラ』では、ロンドン・レインダンス映画祭、ストックホルム映画祭などに正式出品。4月3日からユーロスペース他にて全国順次公開予定。

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安藤モモ子第一回監督作品『カケラ』

監督:安藤モモ子
出演:満島ひかり、中村映里子、永岡佑、光石研、根岸李衣、志茂田景樹、津川雅彦、かたせ梨乃

©2009ゼロ・ピクチュアズ

なんとなく毎日を過ごしている女子大生のハルは、事故や病気で身体一部を失った人たちの精巧なパーツを作る「メディカルアーティスト」のリコと出会う。「ほんとうに女の子がすきなの」「男も女もヒトでしょ、男だ、女だと思うから苦しくなるの」近づいては遠のき、揺れ動くハルとリコの関係。心の隙間を埋めてくれる「カケラ」とはいったい何か?

『カケラ』公式サイト
http://love-kakera.jp/index.html
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ひと昔前、娯楽映画といえば何と言っても香港映画だった。ジャッキー・チェン、マイケル・ホイ(ホイ兄弟)、チョウ・ユンファ…。彼らはそれぞれ、カンフー、コメディ、香港ノワール(「ノワール」は主に暗黒街映画の意味で使われる)という作品ジャンルで観衆を魅了し続けた。それは、「風と共に去りぬ」に代表される1930〜40年代のハリウッド映画黄金期のように、香港映画界でもまだスタジオ・システム(大きな制作会社が大規模で良質な映画を次々と生み出すこと)が機能していた頃の話だ。

僕が香港映画に夢中になりはじめたのは、だいたい80年代初頭のあたりだと思う。その頃すでに香港映画界はブルース・リー不在の時代に突入しており、香港自体、政治的にも経済的にも大きな動きがなかった頃だ。1945年には日本軍の占領も終わり、1967年の文化大革命の波も去っていた。あとは1997年の香港返還を待つだけという頃。ちょうどその時期に誕生したのが先出のスター達だった。

たとえばジャッキー・チェンは、それ以前のカンフー映画に見られた“暗いイメージ”を払拭して「スネーキー・モンキー 蛇拳」で彼の明るいキャラクターを活かしたカンフー・コメディのジャンルを開拓したし、ホイ兄弟(「Mr. Boo」シリーズ)やチョウ・ユンファ(「男たちの挽歌」シリーズ)は、車や拳銃を使ったアクションを取り入れカンフー映画からの脱却に成功した。その後、このいわゆるニューウェーブ路線とも呼べる香港映画界の現代アクションもののブームが90年代まで続くことになる。

しかし90年代に入り、香港映画界にさらなる変化が訪れる。ジョン・ウーとチョウ・ユンファのコンビによる香港ノワールものの大ヒットを受けて、その亜流とも呼べる作品が大量に製作されるようになったのだ。そんな状況下で、うまく流行に乗ったのが、ウォン・カーウァイやアンドリュー・ラウだろう。それはウォン・カーワァイのデビュー作「いますぐ抱きしめたい」を観ればよくわかる。当時の香港四天王であるアンディ・ラウ、ジャッキー・チェンに加え、マギー・チャンを主役に配し、ストーリーもノワールものや青春群像劇などの要素をふんだんに盛り込んだ作品に仕上がっている。実をいうとウォン・カーウァイは、デビューするまで視聴率争いの激しいテレビドラマの脚本を数多く書いて脚本能力を鍛えていた。もしかしたら彼は今後の映画人生を考えてヒット要素の高い娯楽作品をデビュー作に持ってきたのかも知れない(このヒットがなければ名作「欲望の翼」や「楽園の瑕」の製作はなかったと考えていいと思う)。

一方のアンドリュー・ラウは、「いますぐ抱きしめたい」の撮影を担当して、後にウォン・カーウァイよりも一層娯楽性の高い「古惑仔」シリーズや、ハリウッドでもリメイクが決まっている「インファナル・アフェア」シリーズを製作している。彼の作品は、看板となるスターを必要としない、いわゆる “群像映画”だ。彼がその後のスター不在の現状を見据えて群像劇にしたのか、過去の香港映画に反発しているのかは定かではないし、スターなしでも名作を製作できるといった状況を“洗練”とか“成熟”と呼ぶのかは別として、明らかに、以前のような香港ならではの娯楽映画とは一線を画している。

ちょうどその頃から香港映画界はスター不在の時代に突入し、香港映画の苦境が始まることになる。香港映画産業自体の問題だけではない。香港は90年代半ばごろから政治的経済的に大きな変化を強いられている。97年の中国への香港返還、アジア通貨危機、03年にはSARSの流行、鳥インフルエンザ…。こんな状況下では、のんびり娯楽映画を観る余裕がないのも当然のことかも知れないが…。
 
現在に至っては、一般に香港映画に分類されるような作品も、実のところ、映画産業のグローバル化によって“実際に香港で作られた映画”や“香港の土着性が濃厚な映画”というような“純粋な香港映画”と呼べる作品は少なくなってきている。そう考えると香港映画界よりも香港周辺の映画産業(中国や韓国、日本)のほうが活気づいているようにも思える。おもしろい映画ならグローバル化でもなんでも良いのだが、個人的には、最近の香港映画産業に元気がないのはとても残念に思えてならない。だから最近のどことなく芸術っぽさが漂う香港映画よりも、昔ながらのコテコテの娯楽的な香港映画が妙に懐かしく感じられてしまうのだ。


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泉 知良(いずみ・ともよし)
ニューヨークにて映画制作を学ぶ。現在、日本の映画制作会社にて勤務の傍ら、COOLで人気No.1のコラム「Film Freaks」を連載中。
In New York, with Jason Fried (Producer) -----

ドキュメンタリー映画『アラキメンタリ』が2月にNYで公開された。お馴染みの写真家アラーキーこと荒木経惟の日本での製作活動や彼の実生活など、ありのままのアラーキーをスクリーンを通じてアメリカに伝えるというコンセプトだ。今回は監督のTravis Kloseと共に製作に携わったプロデューサーのJason Friedにこの映画撮影、彼自身のアラーキーとの出会いについて語ってもらった。Williamsburgにある彼の知人の日本人オーナーが所有するカフェ“Supercore”でのインタビューの模様を紹介する。


COOL: 監督(Travis Klose)との出会いは?

JASON:当時、僕達はルームメイトだったんだ。そこにTravisが映画の話を持ってきたのがきっかけだね。アラーキーが映画製作に同意した4、5ヶ月後、僕もプロデューサーとしてやることになった。それから約4ヶ月後に日本に渡って、映画作りが本格的に始まったんだ。
アラーキーがOKしてくれた後すぐに、彼の事務所との打ち合わせ、ギャラリーやインタビューをやりたかった人達への連絡など、全てのことが上手く運ぶように計画したよ。計画した後すぐに日本へ渡ったんだけど、6月末だから(日本も)結構暑かったんだ。これはあんまりいい計画じゃなかったのかもね…(笑)

C:Jasonさんから見たTravis監督は?

J:Travisは僕のいい友達だし、良い監督だと思うよ。これはTravisの初めてのドキュメンタリーだけど、彼は今までドキュメンタリーをやりたいなんて思ったことはないんじゃないのかな?フィーチャーフィルムをずっとやりたかったんだと思うよ。今ちょうど日本に行ってフィーチャーフィルム作ってるはずさ。このドキュメンタリーは彼にとってすごい大きな経験になったと思うよ。なんたって映画撮影は本当に大変な仕事だし、編集の時も彼にいろいろ押し付けちゃったしね。彼は本当にいい仕事をしたよ。僕達の初めての映画だから改めて映画作りを振り返ってみると、もし今やり直すならこれを変えたいとかいろいろあるけどね。でもそれはどんな芸術でも同じなのさ。やっと完成して、また後で見直して「あ〜あ…」みたいな。でもだからこそまた映画を撮り続けていくのさ。Travisには確かなアイディアと、何をしたいのかっていう彼の明確な考えがあったからね。僕はそれが良かったんだと思うよ。

C:アラキメンタリの映画撮影のプロセスはどうでしたか?

J:長かったねー。2002年の夏に東京に渡って1ヶ月位撮影して、その後NYで編集を1年半位したよ。面白かったけどね。実際にはちゃんとした内容の定義みたいなものがなくて、アラーキーに出会って「俺について来い!俺のやってること見てたら分かるようになるさ!」って言われたからそれに従ったよ。彼はいつもいろんな所を飛び回っているから、ついてくのが大変だったけどね(笑)。こっちに帰って来た時にはアラーキーのショットが山程あったよ。他にインタビューした人達のもね。それから急いで3分ぐらいの予告編をウェッブサイトに載せて、少しでも収益になるようにしたんだ。それはまあまあ上手くいったね。それから映画の構成について考え出して、編集も3人の日本人に日本語でやってもらったよ、映画自体が日本語だからね。僕は4つぐらいしか日本語を知らない。でもTravisはなかなか日本語が上手いよ。まあ、日本語の映画の編集をするまではいかないけどね(笑)。それからもカットしたり変更したりと随分と長い間作業が続いたね。その間にBjorkとかRichard KernのインタビューがNYであったんだ。それからまたTravisは日本に戻って、その後1回ラフカットがあった。DJ Krushのインタビューでは彼がこの映画のサウンドトラックやりたいって言ってくれて、それからE-mailでやり取りしたんだ。僕達が彼に曲のイメージなどE-mailして、彼がMP3をウェッブに出してくれて、また僕達が返事出してって感じでやって、すべてのトラックをE-mail上で完成させたんだよ。一応、編集が終わったのはフェスティバルの4日前だったけど、実はその後もしばらく編集を続けたんだ。本当に編集が終わったのは2004年の8月1日だね。

C:なぜそんなにも編集に時間がかかったのですか?

J:ショットがたくさんあり過ぎたんだ。だって50時間分ショットがあって、それをたった75分に編集しなくちゃいけなかったんだからね。やることだらけだったよ。あ、2つカメラがあったから倍だ。1時間半の映画を作るのに80時間分ものショットがあったんだよ!

C:アラキメンタリを通して何を主に伝えたかったのですか?

J:もともとの僕達のやりたかったことは、僕達が感じたアラーキーと、彼と共に過ごすことができた貴重な経験をみんなと分かち合いたいと思ったんだ。日本人にはアラーキーはとても知られている。だからほとんどの映画の内容は、日本人ならもう知ってるんだよね。日本人にはアラーキーの作品のことを理解してる人も多いと思うんだけど、それは環境や文化が違うからだと思うんだ。日本人だからアラーキーの(モデルを紐で縛るような)作品を見て、それから渋谷とかをイメージして、その相互関係を感じることができるのだと思う。でもたいていのアメリカ人は、ただ女の裸の写真を見て、ライティングを見て、それでおしまい。だから僕達の考えは、彼の写真にその撮影状況や彼の話などを織り交ぜて見せることで、アメリカ人がただ写真をみるだけじゃなく、実際に写真の内容や何がそこにあるのか全てを見ることができるようにするっていうことなんだ。それについては上手くいったと思うよ。アラーキーについて僕達が知らなかったこともいっぱいあった。映画を観終わった後にもう一度彼の作品を見ると全然違ったものが見えてくると思う。特に若い人達の目には新鮮なものに映ると思うよ。映画が始まる1時間前に見たものが、後で見るものとは全く違ってね。構造的には、はじめに「はい、これはヤラシイヌード写真です。」って見せて、それから彼についてもっと近づいていき、彼の実際の繊細な部分とか、奥さんの話など個人的なところを見せていったよ。それから彼が突然こんなにも有名になったことや、彼の本当の気持ちなどありのままの彼を見て、自分達もだんだん彼について感じ方が変わっていけたらと思ってね。そして最後にはクレイジーさとハッピーさを通じて、彼の気持ちの奥底にある寂しさや悲しさを感じるようになるんだ。

C:撮影中アラーキーはスタッフに優しかったですか?

J:彼はある意味では僕達に対してまるで自分の子供のように接してくれたよ。すごい優しいとかでなく。ビジネスの時はそれだけだけど、でも彼は本当に寛大な人柄でね、僕達をよく食事やカラオケに連れてってくれたんだ。彼は生粋の江戸っ子だよ。撮影が終わると「はい、じゃあ今から飲みに行ってパーッとやろう!」って、すごいクールだよね。僕が人生で出会った人の中でも彼は本当に特別な存在だよ。それに僕が会って話した人達のほとんどの女の人は、日本の女性に限らずこの映画やアラーキーを好きだという人が大半だった。でも中には全く反対の意見で、アラーキーはヌードばかり撮ってるって思う人もいる。でも実は多くの日本人女性にとって、アラーキーは女性を解放してくれる存在なんだと思う。アラーキーが女性を縛っているのと同じで、日本の女性は家や台所、そして日本の社会から束縛されているんだ。だから彼は、女性の服を脱がせたり彼女達を縛ったりすることで、逆に日本の社会から縛られている女性の解放を表現しようとしているんだよ。でもアメリカでは“女を縛ってるなんて気持ち悪いし、最悪な男だ!”っていう見方をするんだよね。僕が日本に行ってとても驚いたことは、日本ていう国はとても厳しい文化を持っている国だと思っていたんだけど、アラーキーが外で歩いてるとみんな「アラキさ〜ん!」って声をかけてくる。みんなアラーキーのこと大好きなんだよね。誰も「あのやらしいヤツだ、なんであんな写真撮ってるんだ!?」って言う人はいなかった。とてもクールなことだと思ったよ。



In Tokyo, with Travis Klose (Director) -----

この日、公開を目前に控えた映画『アラキメンタリ』の監督Travis Kloseと待ち合わせをしたのは、彼が今回東京滞在中の活動の拠点を置いている高円寺だった。アソシエイト・プロデューサーであるMasaさんと一緒に現れた彼は、開口一番、日本語で「はじめまして!」と笑顔で挨拶をしてくれた。焼酎を飲み過ぎて二日酔いの彼は、日本文化が大好きだと言う。彼らが連れて行ってくれたのは、どこかしらニューヨークの「ヴィレッジ」を思い出させる雰囲気のカフェであった。3月5日の公開に向けて、現在各メディアからのインタビュー漬けの毎日。「大変ですね」というと「楽しい」とまた笑顔で答えてくれた。彼は日本語を少し話す。今まで受けてきたインタビューも答えられるところはなるべく日本語で答えてきたと言う。難しい部分はMasaさんがカバーしているのだそうだ。


COOL:まずTravisさんが映画製作に興味をもったきっかけと『アラキメンタリ』を撮ることになった経緯を教えて下さい。

TRAVIS:最初に映画製作に興味を持ったのは7、8年前でした。元々、僕は音楽を作りたかったんです。大学で音楽を学んだ後、音楽、映像、ストーリーなど色んな要素を組み込んだ映画というもののおもしろさに気づきました。はじめてアラーキーを知ったのは『東京ラッキーホール』という彼の写真集を目にしたときです。そこにはモノクロの歌舞伎町の風俗とセックスの世界が広がっていました。それは暗くて怪しげで、とても不思議な世界でした。僕はこれがどうして“アート“として理解できるのか分かりませんでした。今までドキュメンタリーを撮ろうと思ったことはありませんでしたが、このよく理解できない日本の文化と、この写真を撮ったのはどんな人なのだろうということに興味を持ちました。ドキュメンタリーと言っても、“19XX年にアラーキーXXを発表”などというようなものではなくて、もっとアラーキーという人間像、アーティスト観、仕事の仕方というのを撮りたいと思ったんです。

C:どうしてそんな日本の文化に興味を持ったのですか?

T:よく分かりません(笑)。僕は10年以上日本に興味を持ち続けていました。どうしてだか分からないけど、とにかく日本は面白いと思っていました。人と人との関わり方とか、環境や他人に対しての接し方がアメリカよりもいい感じだなぁと思いました。それと日本のアニメも好きでしたし。とにかく僕は日本にとてもインスパイアされていたんです。

C:『アラキメンタリ』を撮りはじめる以前にも日本にはよく来ていたのですか?

T: いいえ。日本を訪れるのはその時が初めてでした。

C:初めて東京を訪れたときの印象はどうでしたか?

T:とても居心地がよかったです。本当に。僕にとっては日本はそんな早く動いてなくてとてもリラックスできました。居心地がいいけど刺激的な場所でした。

C:監督として撮りたかったモノ、作りたかったモノはできましたか?

T:ええ。実は最初アラーキーは僕たちに2日間しか撮影期間をくれませんでした。過去に外国人の撮影スタッフとの苦い思い出があったようで・・・。でも最終的には10日間も撮影できたんです。その10日間でほぼ満足のいくものが撮れました。撮影から1年半後にもう少し撮りたい部分があってまた日本に戻ってきたのですが、それはアラーキーではなくて東京について撮り足りなかった為でした。アラーキーは僕が撮りたいとお願いしたものは大体なんでも撮らせてくれました。裸のモデルさんなども全然問題なく撮らせてもらえました。でもアラーキーの自宅やプライベートなことは一切撮ることが許されませんでした。一度信頼を得ると彼は本当に協力的で、僕たちが撮影しやすいようにちゃんとセットアップしておいてくれたりするので、すごくスムーズに撮影ができたんです。

C:アラーキーとの夜遊びはどうでしたか?

T:すごく疲れましたね。(笑)すごくパワーのある人です。夜な夜な飲み会やパーティ三昧の日々で、毎晩一緒に酔っぱらいました(笑)。当時僕は26歳、アラーキーはおそらく62歳(?)くらいでしたが、常に彼の方が元気でした。仕事もプライベートも常にパワフル。これにはとてもびっくりしました。

Masa:トラヴィスはとても日本人的なセンスを持っているのだと思います。約束の15分前にはちゃんと来て待ってたり、日本では当たり前だけどアメリカにはない習慣をきちんと理解している。そこを荒木さんが感じ取ってくれてかわいがってもらっていたようです。

C:私の荒木さんのイメージは(おそらくほとんどの人も同じく)「エッチなおじさん」でした。でも『アラキメンタリ』を見て、そのイメージが変わりました。

T:そう、僕もそうなんです。『東京ラッキーホール』を見る限りでは、この写真を撮った人はただ「エッチな人」という印象でした。だけど撮影を進めていくにつれてアラーキーの卓越した感覚と人柄を知ることができたんです。今は彼を尊敬していますし、とても楽しくて素敵な方だと思っています。

C:この作品はトラヴィスさんにとっての監督デビュー作となるわけですが、今までの映画製作との違いは何でしたか?

T:まずドキュメンタリーを作るということが初めての経験でした。ニューヨークで映画作りを学んでいたときに、小さな映画はいくつか作ったことがありました。でもドキュメンタリーは僕が今まで作ったことのあるものとは全然違ったんです。通常、まず最初にアイデアが浮かんだとして、それを映画にしようとするとそれからストーリーを考えますよね。それでそのストーリーを映画にするためには、幅広く色々あったアイデアを経済的な条件とか撮影条件とかによってどんどん絞っていくんです。丁度ピラミッドのようなカタチで頂点に向かってどんどん制作を進めていきます。でも今回はその逆で、ドキュメンタリーにおいては何が正しいとかがないので、どんどんやれることが広がっていくのです。そしてそれがストーリーになっていく。それはすごく難しかったけど、制作を進めて行くに従ってアラーキーに対する見解が変わっていったのが面白かったですね。

C:トラブルとかはありましたか?

T:もう沢山ありましたね。まず僕達にはほとんど制作費がなかったので、時に本当に苦しいこともありました。最初は編集も自分達だけでやろうと思っていたんです。自分には、映画の中で人々が何を言おうとしているのかという主旨を表現できるくらいの日本語能力はあると思っていたのですが、すぐに自分にはそこまでの日本語を理解できないことに気が付かされました。誰か日本語の部分を助けてくれる人が必要だったんだけど、僕には誰かに仕事を頼んで、それに対して払えるお金がなかったんです。撮影の時はジェイソン(プロデューサー)達と一緒に3人で安い外人ハウスの1室に泊まっていたのですが、2人はベッドで、僕は布団で寝てました。他の2人は暑がりで常に窓が開いていたので、僕は毎晩寒い思いをしていたんです(笑)。

C:『アラキメンタリ』を通じて伝えたいことは何ですか?

T:うーん、難しい質問ですね。「アートとは?」「人生とは?」のような問い掛けに対しての答えとも捉えられるし、且つ、そこからさらに新たに問い掛けてるような感じでもある。アラーキーの仕事を通してのメッセージは「人生とはセックスだ」みたいな感じでしょうか。でも僕はこの映画の中で、ひとつのメッセージだけを伝えようとはしていません。

C:『アラキメンタリ』を見て、荒木さんはなんて仰ってましたか?

T:好きだって言ってくれました。すごくラッキーだって。

Masa:下北沢に『ラ・カメラ』っていう毎月荒木さんがポラロイドだけを展示するギャラリーがあるんですけど、2003年にそこで初めて荒木さんがこのフィルムを見たんです。すごい狭いところなのに50人以上集まって、荒木さんは、恥ずかしがったり笑ったりうなったりしながら見ていて、「うわぁ、あとでなんて言われるんだろうなぁ」ってドキドキしていました。その後近くの飲み屋に行く途中、いつもは荒木さんがずんずん先を歩いちゃうんですけど、その日は僕たちの歩調に合わせて狭い道をかに歩き状態で歩きながら、「いい映画を作ってくれてありがとう」と言ってくださいました。最後の記念撮影の時なんて、荒木さんはトラヴィスの口にキスしてましたから。

C:次に手掛けようとしているプロジェクトについて教えてください。

T:『ヤクザメンタリ』です。椎名林檎さんに撮影依頼をしようと思っています。イギリスのロックグループのピンクフロイドを映画化した『ザ・ウォール』(参考:http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=19562) みたいな感じのものを考えています。彼女自身と彼女の音楽を元に、椎名林檎とヤクザとのフィクションストーリーを考えて、日本に来てドキュメンタリーを撮っている撮影スタッフと一緒にドキュメンタリーの手法で撮ろうと思っています。内容はフィクションだけどドキュメンタリーのような映像になると思います。

C:映画製作以外で今後何かやりたいことはありますか?

T:僕にとって映画製作は本当の仕事じゃないと思うんです。僕は何かを作ることによって人生を楽しんでいこうと思っているだけなんです。僕は写真を撮るのも好きだけれど、自分は写真家になれるとは思わない。でもとにかく映像や音楽、写真など、アートに満ちた人生を送っていけたらいいなと思っています。



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Travis Klose ( Director)
ニューヨーク大学芸術学部映画・テレビ学科卒業。『スパイダー・マン』(02/サム・ライミ監督)や『ユマ・サーマンの運命の人を探して』(02/ミーラー・ナーイル監督)などの重要な作品でカメラマンやロケーション・アシスタントとして活躍中。

Jason Fried (Producer)
インタラクティブ・コンピューターデザインの世界ではパイオニア的な存在。「アラキメンタリ」のプロデューサーとして、またサウンドマンとして東京の撮影現場に参加。現在は自ら監督としてデビューを飾る為に、ドキュメント作品「mass incarceration」をアメリカで計画中。

『アラキメンタリ』のDVD、ビデオは2005年4月に発売予定。



text by Sayako MAEDA(Jason), Mieko SAI(Travis)
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English / 日本語
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