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『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
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チェルシー“Transplant Gallery”で行われた展覧会『Takagi Masakatsu + Saeko Takagi—Color of Empty Sky—』(4/29-5/26)では、高木正勝と高木紗恵子の共同プロジェクトとして、最新作の『Color of Empty Sky』の初上映と同時に、“ATM Gallery”ではドローイングの展示『Zert』が行われた。実写映像を使った映像作品が多い中で、素材から全てを作り上げたアニメーション作品『Color of Empty Sky』は、両作家の新境地を切り開く作品として注目を浴び、オープニングには多くの人が詰め掛けた。今回、高木さんはその多忙なスケジュールの合間を縫ってCOOLのインタビューに応じてくれた。

COOL:高木さんの簡単なプロフィールを教えてください。

Masakatsu Takagi:79年生まれ、京都出身です。外国語大学の英語科にいましたが、1年で中退して、その時に知り合った仲間たちとフリーペーパーのような雑誌を作っていまし た。その雑誌にカセットテープで音楽を付けていたりしていたんですが、その雑誌が FMラジオ局の賞を取ってしまったんです。その頃写真をやっていたこともあって、メ ンバーの作る音楽に映像を付けてみようということになって。それで写真の延長と いう感じでビデオを始めたんですが、そのうちにそれがすごく面白くなってしまったんです。1年ほど続けていたら12本程の映像が出来たんですが、それをたまたま東京の人が見 てくれて、映像のDVDをカタログ感覚でリリースすることになりました。その頃からクラブ でライブをするようになったのですが、その反響はすごかったですね。それからどんどんプロ意識が上がっていきました。もともとクラブやテクノにはあまり興味がなかったので、それからは自分の作品として音楽と映像を作り始めました。最初、音楽は映像のためのおまけだったんですが、音楽がいいと言ってくれる人も結構いて、それで今は両方が成り立っているという感じです。

C:今回、高木さんはトランスプラント・ギャラリーで、奥さんの紗恵子さんはATM ギャラリーで、それぞれ同時に展示を行ったわけですが、その経緯について聞かせて下さい。

MT:まず、ATMギャラリーの個展が先に決まりました。トランスプラントでは、以前から 僕のDVDを置いてもらっていてやり取りがあったので、この機会に同時にやってみよ うということになりました。また、UAのために制作したプロモーションビデオを、ひとつの作品として、美術館やギャラリーなどで見せたかったということもあります。

C:UAコラボレーションすることになったきっかけは何だったのですか?

MT:(彼女が)僕の作品である『world is so beautiful』のDVDを見てくれて、それでオファーがきました。最初の作品である『Lightning』を作っている途中で、彼女に見せたのですが、思っていたのと違うと言われて(笑)。『world is so beautiful』みたいになると思っていたと言われたんです。結局、完成した時には納得してもらえましたけどね。最初の作品『Lightning』はUAから依頼を受けて作ったんですが、2作目の『Color of Empty Sky』はこちらから話を持ちかけて、あくまでも作品として作ったんです。ですから彼女の音楽だけを借りたという感じですね。『Lightning』ではUAの考えを確認しながら作り上げていったんですけど、『Color of Empty Sky』のほうでは、完全に僕たちの考えていることを形にしました。

C:では『Lightning』を作る過程では、UAとの話し合いはなかったのですか?

MT:最初の 『Lightning』は、プロモーションビデオだったので、もちろん打ち合わ せをしました。でも、彼女は、影がまったくない光の中に自分がいるというイメージ で曲を作ったみたいなんですけど、それが僕の中の曲のイメージと違ったんですよ。 それに僕は『Lightning』を“閃光”という意味で捉えていたんです。でもそれが実 は“雷”だったということが後で分かって(笑)。それからはよく話し合いましたね。

C:高木さんの作品は、実写映像とパソコンで仕上げるものが多いと思うのですが、今回の作品は今までとはちょっと違いますよね?

MT: 以前は、自分で撮影してきた映像をベースに作品にしてきました。UAのビデオを 作ってからは、同じやり方でも形を変えて何点か作ったりしましたね。この作品を 作ってから作風が変わってきました。

C:『world is so beautiful』は、もともとアニエス・べーのために作ったそうです が、きっかけは何だったのですか?

MT:これも、アニエス・ベーの会社の人が僕の作品をたまたま見てくれたんです。ちょうど日本のアニエス・ベーが、何かアートに関わることをしたいということで、それでフランスの本社から許可が出たんです。ですから何の前例もなかったので、すごく自由にできましたね。実際に関わる以前に、アニエス・ベーのショップの雰囲気がすごく好きだったので、あそこに僕の映像があったらと思っていたんです。

C:『world is so beautiful』の中の『Birdland』という作品について少し教えてください。

MT:アイディア自体は、いつも作り始めてから途中で思いつくんです。まず最初に、 撮ってきた映像に色をつけたり、技術的な面でできることを試したりして。シリーズ ものの場合は、全体として伝えたいテーマみたいなものが、いつも簡単な漢字で思い浮かぶんです。例えば「成長」「発芽」「飛躍」だったり。いつも何か爆発するようなエネルギーに関連したものですね。 僕の映像のプロセスで言うと、最初の1分間だけでも、いつも種としてラフな部 分を残すんですよ。それがちょっとずつ、どう成長して行くかを見るのが好きで すね。自分でも想像しなかったものにたどり着きたいという気持ちが常にあります。 最初から最後までひとつのコンセプトでガチッと決まったものを作りたい訳ではない んですね。一枚の絵を5分間の映像でやっているような感覚なんです。最終的には見え なくなる下書きの部分もしっかり入れたいですね。後のほうがクオリティーが高いと いうよりは、全体を見た時に一枚の絵を見た時と同じ印象を受けられるものを作りた いのです。だから『Birdland』の場合も、人の動きと鳥の映像を見ていて、こう作ろうか なって思うぐらいです。あと作品のためにわざわざ撮影にいったりはしないですね。最初から決めて作らないので、ろくでもないものが出来たりするときもありますよ(笑)。

C:どこから作品のインスピレーションを受けますか?

MT:旅行ですね。年に3、4回は旅に出ます。つい最近ではネパールに行きました。 旅に出ると大体2つくらいのアイディアがまず頭の中に浮かびますね。特にメモやス ケッチをとったり、撮影をする訳ではないんですが、ずっと気になっているものは、 それから最低半年または、1年以上してから作品として外に出てきたりします。だから何 か撮影する時は、無意識のうちに前に受けたインスピレーションに促されてしている んだと思います。インスピレーションは、まず1回発酵させて、自分でもトランス状態にならないとだめですね。自分だけど自分じゃないみたいな複雑な感覚じゃないと、自分の作品と思えないんですよ。

C:電子音楽やビデオアート、他のアーティストのライブのツアーに参加したりと 様々なことをされていますが、どの部分にプライオリティーをおいているのですか?

MT:特に優先とかはしていなくて、その時にやりたいことをしています。大体交互にその波がやってきます。どっちかに集中したら、もう片方はうっとうしくなってしまうんです(笑)。

C:8枚目のDVD『Coieda』について教えてください。

MT:これは1年以上前に作った作品です。今までに出ているDVDの中では一番新しい作品です ね。それまでの作品は、コンピュータで作った音、生楽器の音、歌などが入っていてポッ プミュージック風だったりというように、別れてしまっていいて、それぞれに関連性が なかったんです。その時の気分によって全く違うものが出来るので。『Coieda』は、 今まで分けていたものを全部一緒にして、地に足がついた作品になっていると思います。DVDとしては、今まで4年間やってきたことの集大成のような作品ですね。映像に関して は、『world is so beautiful』が自分の思っていたことをすべて吐き出してしまっ たような作品だったので、最近はまた自分でも新しいと思えるような映像が作れるようになってきました。『Coieda』はそのちょうどその途中経過みたいなものですね。

C:今後はどんなことをする予定ですか?

MT:今回ニューヨークの美術館で、素晴らしいアーティストたちの作品を久しぶりに見て思ったんですが、今までは狭い枠の中しか見えてなくて、そこで一番になったらいいって思ってたんです。まだ若いからこんなもんでいいだろって。でもこれからは40、50歳のすごい人たちとも対等な所でやっていかないといけないなと、初めて強烈に思いましたね。



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高木正勝
ミュージシャン/映像作家
全国のアップルストアや、金沢21世紀美術館、東京都現代美術館、アニエスbショップなどでの作品上映のほか、細野晴臣と高橋幸宏のユニット『Sketch Show』やデビット・シルビアンの全米・ヨーロッパライブツアーにも参加、ドイツやニューヨークのレーベルからはアルバムもリリースし、UAやYukiといった有名アーティストのプロモーションビデオの制作も手がける。



text by Kazumi UMEZAWA, photo by Wallace Spain
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イタリアのミラノ・トリエンナーレやNew Museum of Contemporary Artsなどにも出品するなど、近年、多方面から注目を浴びているインタラクティブ・ライトデザイナー/インスタレーション・アーティストのJames Clar。最近では日本でも「DOTMOV 2004」や「文化庁メディア芸術祭」に招待されたほか、「United Bamboo 代官山」では店頭に設置するための「インタラクティブ・ビデオ・キャプチャー・システム」を制作。その活躍の場を国内外に広げている。彼の作品のユニークでミニマライズされたフォルムは、技術面での完成度はもちろんのこと、アニメーションの要素を取り入れた独自の面白さも持ち合わせている。今回は、ブルックリンにある彼のスタジオを訪ね、インタラクティブ・デザインについて、日本でのエピソードなどを交えながら語ってもらった。

COOL:はじめに簡単な経歴を教えてください。

James Clar:NYUでフィルムを専攻して、その後そのまま大学院のIPPインターラクティブ・テレコミュニケーションプログラムで、ビジュアル・システムについて学びました。その後、Eyebeam Atelierや Fablicaなどで仕事をしました。

C:ライティングアートを始めたきっかけは何ですか?

JC:ビジュアルデザイナーとして、人間の視覚の働きを理解することはとても重要なことです。そう考えると、光を扱うのは本当に本質的レベルの問題で、とてもシンプルです。だからこそアイディア次第でいくらでも遊ぶことができます。そんなミニマル・アートとして部分に惹かれました。ミュージシャンが音を扱うように、僕の場合はビジュアルアーティストとして光をクリエイトしています。

C: フィルムではアニメーションを主にやっていたんですよね?

JC:実を言うと、最初はアートとは全く関係ないビジネスを専攻していて、途中でフィルムに変えたんです。フィルムでも、俳優やスタッフなど大勢使うようなものだと、自分の意志通りに正確に作ることは難しいと思います。でもアニメーションは論理的で、すべて自分の思い通りにスクリーン上でコントロールすることができます。それに3Dを使えばもっとダイナミックな面白い映像になります。

C:ほかのアートには興味ありますか?

JC:ミニマリズムとか興味ありますね。不要なものをすべて排除したカタチはとてもクリーンで美しいと思います。Dia: Beaconはミニマルアートをたくさん所蔵していてすごく気に入っています。

C:あなたの作品のコンセプトは何ですか?

JC:新しい作品「Circle Square」は、ミニマリズムをコンセプトに作りました。常に自分の中にあるアイディアを素直に表現しているつもりです。今までの作品では、建築事務所Hariri and Haririとコラボレートした「Interactive Digital Dress」は、衣服と人間とのコミュニケーションをテーマに作りました。衣服に埋め込まれた小さなディスプレーの映像が、人が話かけることによって変わったりします。まるで洋服の中に生きものがいるかのように見せることが狙いでした。もちろん実際にそれを着ている人が動くことによっても、様々な反応をします。

C:インスピレーションはどのようなものから受けますか?

JC:アニメーションからアイディアをもらうことが多いです。空間の使い方、一連の動作を作り上げるためのフレームの数やタイミングなどとても参考になります。もちろん、他のアーティストからいい刺激を受けることもあります。

C:創作過程で一番大切なことは?

JC:僕の作品はマイクロチップやワイヤーが複雑に入り込んでるので、光や埋め込んだ情報プログラムが正確に作動するかというのは、最後になってみないと分からないんです。プラグを差し込んで、何も起こらなかったなんてことは今までに何度もあります。常に作業過程をしっかり確認しながらやることが大切です。

C:影響を受けたデザイナーはいますか?

JC:インゴ・マウラーなんか素晴らしいデザイナーだと思います。彼はライティングデザインを多く手がけているんですが、僕の作品とは違ってもっと固定的で、プロダクトデザインみたいな感じです。ジェームス・タレルやダン・フレビンはもう長い間ライティングアーティスとしてやっている人たちで、彼らが何からインスピレーションを受けているのかということには常に興味があります。

C:札幌で開催されたデジタル・フィルム・フェスティバル「DOTMOV 2004」に招待されて行ってきたそうですが?

JC:ウェブマガジンのSHIFTがプロデュースした「Soso Café」でモーション・グラフィックを主にした展覧会だったんですが、ちょっと趣向の違う僕の作品も展示したいということで参加しました。日本では、作品に対してすごくポジティブな反応をもらいました。ニューヨークよりも東京の方がもっと最新のテクノロジーに敏感で、マーケットの幅が広いような感覚を受けました。これからは東京にもベースを置いて仕事ができたらいいと思っています。

C: 今回日本での出展では2回目となる、2月に恵比寿の東京都写真美術館で行われた『第8回文化庁メディア芸術祭』に『Line』を出品しましたが、どうでしたか?

JC:実験的なビデオゲームからニューメディア・アート、アニメーションまで幅広い作品が集まって、とても素晴らしかったです。オープニングセレモニーはウェスティンホテル東京で行われたんですが、プレスの方が大勢来ていました。わずか2週間の間に4万4千人以上が訪れたみたいです。最近では、6月のはじめにNHKのデジタル・アートを紹介する番組『デジタル・スタジアム』、通称『デジスタ』にも出ました。

C:今後の展望は?

JC:いろいろな経験をしながら今ある技術を向上させていくことと、あとは環境デザインのほうもやってみたいと思っています。建築スペースに設置できるようなもっとスケールの大きいものを作りたいです。



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James Clar(ジェームス・クラー)
インタラクティブ・ライトデザイナー/インスタレーション・アーティスト
ニューヨーク在住。ニューヨーク大学インタラクティブ・テレコミュニケーション科卒業後、1994年にベネトン社が文化的財産を基にして設立した、コミュニケーション・リサーチ・センターである「ファブリカ」での仕事を手掛けたほか、近年、日本をはじめとして国内外で活躍中。“光”を自在に操る高度な技術とミニマルなフォルムが融合した作品が高い評価を得ている。



text by Kazumi UMEZAWA, photo by Noho KUBOTA

今でこそ老若男女問わず世界中で利用されているインターネット。だがその歴史はまだ30数年と浅い。そのインターネットが普及し始めてまだ間もない頃、アメリカのWeb業界に新風を吹き込んだ1人の日本人デザイナーがいる。Yoshi Sodeoka その人である。アメリカのメディア大手,世界最大のエンターテイメント企業であるVIACOM を経て、Sodeokaがアートディレクターとして『WORD.COM』を始めたのは1995年。あのWindows95が発表され、世界中で爆発的なブームが起きた年だ。翌年には世界のインターネット接続ホスト数が1000万台を突破する。現在もニューヨークでフリーで活躍する彼に近況を語ってもらった。

COOL:では簡単なプロフィールと、現在手がけている仕事について教えてください。

Yoshi Sodeoka:ニューヨークに来たのは1989年で、僕が20歳の時でした。プラット・インスティテュートでアートとコンピューターを勉強して、その後は2年ほどMPBで働いていました。その後は自分の仕事を始めるようになって、3人ぐらいでパートナーを組んで自分の会社を初めました。今はまた一人になって、デザインとアートの仕事を半分づつやっています。アートの方では主にビデオをやっていて、美術館やギャラリーで見せたりもしています。

C:ニューヨークに来たきっかけは何だったんでしょう?

YS:日本のテンプル大学の分校にいた時に、ニューヨークから来ている先生に出会いました。日本にあるパーソンズスクールのDeanの方で、 その人がアートとデザインを教えていたんですよ。年上の方だったんですけど、共通点があったりしてとても仲良くしてもらいました。その方がニューヨークに戻る時に、こっちでもっと勉強しないかと勧められたのがきっかけでした。

C:今まで様々な仕事を手がけてきていると思いますが、VIACOMやWORDでの仕事について振り返ってみていかがですか?

YS:学校を卒業してすぐVIACOMで働き始めて、2年ほど働きました。まだ何も分からない時だったんですけど、MTVの仕事などはいろいろと勉強になりました。WORDでは、割と自分の好きなことができる感じでした。僕はアートディレクターとして仕事をしていたんですけど、割と自分の方針で自由に仕事ができました。あの時はまだインターネットが普及し始めたころで、みんな興味を持ってくれましたね。その点では面白いことができたと思います。

C:その当時と今とではデザインに対する考えの変化はありますか?

YS:インターネットが出てからはだいぶデザインというものが変わりました。雑誌とか本に比べて、インターネットだったら瞬時に新しいものが見れますよね。それにデザインのスタンダードがだいぶ向上したと思います。それと同時に真似する人も増えたと思いますね。ひとついいものが出てくると、みんなそれを真似したがりますから。そういう面ではオリジナリティーに欠けるところもあると思います。インターネットが始まる前は、もっと変わってることをやっている人が多かったですね。今はとにかく量が多いから、自分の好きなものをよくわかっていないと、流されてしまうんじゃないかな?

C:デザインの仕事のどのような部分に魅力を感じていますか?

YS:デザインていうのは人に頼まれたものをカタチにするものですからコミュニーケーションが大事ですね。デザインのスキルだけじゃなくて、限られた時間でそれぞれのソルーションを見つけていくというんでしょうか。そういう点では毎回違うチャレンジがあって面白いと思います。アートのプロジェクトは全然プロセスが違って、すべてが自分のインスピレーションですから。時間も限られていないぶん、自分でスケジュールを管理して、ひとつひとつ終わらせていかないといけないですよね。僕の場合はデザインとアートという全く違うものをやっているから、ちょうどバランスがとれていると思います。

C:デザインに対するポリシーについて教えてください。

YS:見た目だけではなくて、ちゃんとコンセプトがあって考えられてるデザインを大事にしています。どうしてこういうデザインが出きるのかを考えながら、そのプロセスを大切にしています。だから必ず見た目的に凝ったものじゃないといけないとかいうことはないですね。シンプルで簡単に見えるものでも、意味がちゃんとあって奥が深かったりしますから。

C:インスピレーションはどこから受けるんですか?

YS:プロジェクトにもよりますけど、普段の生活の中で自然に吸収されているものが出ていると思いますね。わざわざ美術館やどこかに 出かけたりということはないですね。特にニューヨークに住んでいれば、特別に意識する必要もないでしょう。

C:最近手掛けた仕事は?

YS:MTVのVH1のステーションIDの仕事をしました。あとはBeckのミュージックビデオの仕事をしましたね。今はインターネットのデザインよりもビデオの仕事の方が多いです。デザインは短期間で済む仕事の方が好きですね。あまり時間がかかりすぎると、面白くなくなちゃったりするんですよ。僕の場合は、勢いがあった方がクリエイティブになれます。

C:将来のビジョンはありますか?

YS:今まで長い間デザインでやってきましたから、今度はもっとアートの方に集中したいと思ってますね。特にビデオアートをもっとやりたいと思っています。他のパートナーと会社を持っていた時はそれで結構時間を取られてしまっていたんですけど、今は自分一人なので融通もききますから。一年の内半分くらいは自分のために時間を使いたいですね。



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Yoshi Sodeoka(ヨシ・ソデオカ)
Pratt Instituteでグラフィックデザインを学ぶ。卒業後すぐにVIACOMでMTVなどのCD-ROM開発に携わる。1995年、アートディレクターとしてウェブマガジン『Word.com』をスタート。Webzine(ホームページ形式で配信されるオンライン雑誌、オンラインジャーナルの総称。Web+Magazineから成る造語)の先駆けとして一躍ウェブ業界の寵児となり、NYフォリオ賞、I.D.マガジン・インタラクティブ・メディア・デザイン賞など数々の賞を受賞。彼のインタラクティブデジタル作品は数々のCD-ROMやウェブサイトで紹介された他、サンフランシスコ近代美術館、NYホイットニー美術館、ドイツ・デザイン・ミュージアムなどでも取り上げられている。



text by Kazumi UMEZAWA, photo by Naho KUBOTA

アート、音楽、ファッションなど、マルチな才能を発揮するデザイン界の貴公子、Karim Rashid。イッセイ・ミヤケやグッチーニなど、今まで手掛けたデザインは数知れず。その鮮烈でいてキュートな作品は、MoMAを始めとする数々の有名美術館のコレクションにもなっている。昨年にはNY初となる、インテリアから家具、食器までを彼自身がトータルコーディネートしたタイ料理・ 寿司レストラン・バー『Nooch』、そして彼 のデザイングッズを扱う『The Karim Rashid Shop』が立て続けにオープン。さらに今年の始めには『I want to Change the World』と題して、ヨー ロッパ初の美術館展をミュンヘンで行うなど、常に話題にこと欠かない精力的な活動ぶり。今回はそんな勢いの衰えない男の正体に迫ってみた。

COOL:ではまず最初にあなたの簡単なプロフィールを教えてください。

Karim Rashid:出身はカイロで、イギリス人の母親とエジプト人の父親の間に生まれて、ロンド ンとトロントで育った。カナダで大学を卒業し、イタリアで修士号をとったんだ。も う20年も前の話だね。その後カナダで8〜9年働き、11年前にニューヨークで自分のデ ザインオフィスを持つことになったんだ。

C:なぜデザイナーになろうと思ったのですか?なにか決めてみたいなものがあっ たのですか?

KR:あまり深く考えた事はないよ。ただ生まれつきその性質を持っていたというか… もちろん真面目な話だよ。幼い時から、物、人の顔、アパートメントやアクセサリーなどの絵を描いて育ったんだ。常に自分はいつかデザイナーになると思っていたね。 16か17の時、どの大学に行こうか考えていた時も、何を学びたいのかはっきりしていたよ。建築、ファッション、インテリア、アート、すべてを学びたいと思っていたん だ。ただその時は、工業デザインなんてものがあるなんて知らなかったんだけどね。 そのころは学校でも(工業デザインを)教えてる所はほとんどなかったんじゃないか な?僕は本当は建築科に行きたかったんだけど、たまたまそれが間に合わなくて工業 デザインを勧められたんだ。でも結局、それこそが僕のやりたい事だったというわけさ。

C:デザインに対する自分なりの哲学みたいなものがあるのですか?

KR:もちろん。素晴らしいデザイナーはみんな哲学やイデオロギー(概念)を持って いると思うよ。 デザインっていうのは、モダンで美しいものだと多くの人が思って いると思う。それって結局、非日常的なことだろう? 僕はそんな風に考えないな。 でもだからと言って、なんでもいいわけではない。ただ一般的に幅広く日常になじむ 物だと思うんだ。 それでいて生活をきっちり満たしてくれて豊かになれるもの。もちろん金銭的な問題とかじゃなくてね。

C:あなたのスタイルについて教えて下さい。

KR:そうだね、“スタイル”という言葉は、もうすでに完全に確立されて、完成して しまっている場合に使うんだよ。流動的なものには“スタイル”という言葉は使わな いんだ。それなら、僕のデザインに対する感性や哲学は何かという事になるかな。僕 はいつも、人間的で、それでいて刺激的なものを作るようにしているよ。本物の人間 性、改新的な素材などを使った科学技術的なものすべてがうまく調和した感じかな。もちろん僕の学んできたことや仕事にしていることは工業デザインなんだけど、でもアーティストとしての自分も常に感じるんだ。ちょうど、この2つの間で引き裂 かれそうになっている感覚だよ。父親が画家だったっていうのもあるけど、僕の中に はアーティストとしての詩的で感情的で繊細な遺伝子が流れているんだ。でもさ、工業デザインはこれとはまったく逆だよね。もっと生産的で技術的な商品だ。この2つ の間にラインを引くのは難しいよ。ちょうど5、6年前にNYでアートのイベントに参 加したんだ。その後も何度かそういう機会があったんだけど。すごく楽しめたし、一つのカテゴリーに収まらなくてもいいんだってことに気付くことができてよかった ね。今こうしてる時でも、もう新しいことを始めたいと思ってるんだ。今はファッ ションデザインにすごく興味があるんだよね。実際にファッションの小物とかのデザ インをやり始めているんだ。あとは建築かな。ビルの設計やインテリアを手掛けて る。常に幅広くいろいろなことをしていたいと思っているよ。それらは結局、僕自身 の所に帰ってくるからね。そういえば子どもの頃から何でもしたがる子だったな。そ していつも一番じゃないと気が済まなかった。もちろんすべてにおいてね。アーティ ストとしてもデザイナーとしてもね。

C:あなたのデザインはどれもユニークな形をしていますよね。どういったものか らインスピレーションを受けるのですか?

KR:インスピレーションていうのは日常そのものだと思う。人間の蓄積された経験か らくるものだね。例えば、携帯電話をデザインする企画があったとするでしょう。で も僕はそのために他の携帯電話のデザインを見たりしない。まずは人が使う物だから、人間にとって使いやすい形を考える。つまり実用的でなくてはならない。僕の場 合は、コンピュータ上のデザインツールやプログラム技術なんてことも重要だけど ね。あとはプラスチックなどの新しい素材。これも重要要素。一度にいくつものプロ ジェクトを抱え込むなんてざらだから、そこで関連性が出てくることもあるかな。例 えばシンガポールでインテリアを手がけていて、同時にイタリアで時計のデザインを しているとするでしょう。それらがどこか似ていたりなんてね。60、70年代の空想的、非現実的風潮の中で育ってきたということも大きいと思うよ。デザインという観点からいったら、あんなにいい時代はなかったね。なぜなら、みんなが自分たちの生活を変えることに躍起となっていたからさ。

C:あなたはDJもするそうですが、音楽とデザインになにか関係性はあるのですか?

KR:音楽って形のないデザインみたいなものだと思うんだ。原動的で、感覚的で、誘惑的で、人間臭くて、日常の物語みたいな…まるでデザインと一緒だよ。音楽を作ることは、一つのテーブルをデザインするのと同じことなんだ。それに音楽はとても大衆的で流行性がある。工業デザインにおける大量生産みたいだ。そう考えると、デザイン自体をアートという観点で見るのは違うような気がするけどね。みんなの心に残るような音楽を作り出すのと同じようにモノを作ることができる。でも多少は実際にカタチを残す方が難しいのかな。

C:今後の予定は?

KR:今実は、世界25ヵ国で“70’sプロジェクト”にちょうど取りかかってるところなんだ。ジュエリー、時計、靴、電話、コンピュータ、家具、照明、インテリア、レストラン、ショップ、建物、ホテル、バキュームクリーナーなど、あらゆるものをデザインしてるんだ。今ブラジルのある会社に頼まれて、すべてプラスチックでできた靴を作っているんだ。今朝ちょうどそのサンプルが届いたところなんだけど、出来上がってきたものを見て、ワクワクするのと同時に何か物足りない感覚がいつもあるんだ。ものを創ってる人はみんなそうだと思うよ。創造は抽象的なものでしかないからね。どこまでいっても“完成”しないような気がするな。



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Karim Rashid(カリム・ラシッド)
インダストリアルデザイナー。エジプト、カイロ出身。イタリアやカナダでデザインを学んだ後、1993年ニューヨークにスタジオを構える。現在に至るまで、建築、インテリア、ファッション、音楽など幅広い分野で活躍。その独特のフォルムと、特殊な素材を使用したデザインで一躍有名に。その他数多くの国際的な栄誉ある賞を受賞。70点を超える作品がMoMAをはじめとして、サンフランシスコ近代美術館、モントリオール装飾芸術美術館などのコレクションに収められている。



text by Kazumi UMEZAWA, photo by Noho KUBOTA
In New York, with Jason Fried (Producer) -----

ドキュメンタリー映画『アラキメンタリ』が2月にNYで公開された。お馴染みの写真家アラーキーこと荒木経惟の日本での製作活動や彼の実生活など、ありのままのアラーキーをスクリーンを通じてアメリカに伝えるというコンセプトだ。今回は監督のTravis Kloseと共に製作に携わったプロデューサーのJason Friedにこの映画撮影、彼自身のアラーキーとの出会いについて語ってもらった。Williamsburgにある彼の知人の日本人オーナーが所有するカフェ“Supercore”でのインタビューの模様を紹介する。


COOL: 監督(Travis Klose)との出会いは?

JASON:当時、僕達はルームメイトだったんだ。そこにTravisが映画の話を持ってきたのがきっかけだね。アラーキーが映画製作に同意した4、5ヶ月後、僕もプロデューサーとしてやることになった。それから約4ヶ月後に日本に渡って、映画作りが本格的に始まったんだ。
アラーキーがOKしてくれた後すぐに、彼の事務所との打ち合わせ、ギャラリーやインタビューをやりたかった人達への連絡など、全てのことが上手く運ぶように計画したよ。計画した後すぐに日本へ渡ったんだけど、6月末だから(日本も)結構暑かったんだ。これはあんまりいい計画じゃなかったのかもね…(笑)

C:Jasonさんから見たTravis監督は?

J:Travisは僕のいい友達だし、良い監督だと思うよ。これはTravisの初めてのドキュメンタリーだけど、彼は今までドキュメンタリーをやりたいなんて思ったことはないんじゃないのかな?フィーチャーフィルムをずっとやりたかったんだと思うよ。今ちょうど日本に行ってフィーチャーフィルム作ってるはずさ。このドキュメンタリーは彼にとってすごい大きな経験になったと思うよ。なんたって映画撮影は本当に大変な仕事だし、編集の時も彼にいろいろ押し付けちゃったしね。彼は本当にいい仕事をしたよ。僕達の初めての映画だから改めて映画作りを振り返ってみると、もし今やり直すならこれを変えたいとかいろいろあるけどね。でもそれはどんな芸術でも同じなのさ。やっと完成して、また後で見直して「あ〜あ…」みたいな。でもだからこそまた映画を撮り続けていくのさ。Travisには確かなアイディアと、何をしたいのかっていう彼の明確な考えがあったからね。僕はそれが良かったんだと思うよ。

C:アラキメンタリの映画撮影のプロセスはどうでしたか?

J:長かったねー。2002年の夏に東京に渡って1ヶ月位撮影して、その後NYで編集を1年半位したよ。面白かったけどね。実際にはちゃんとした内容の定義みたいなものがなくて、アラーキーに出会って「俺について来い!俺のやってること見てたら分かるようになるさ!」って言われたからそれに従ったよ。彼はいつもいろんな所を飛び回っているから、ついてくのが大変だったけどね(笑)。こっちに帰って来た時にはアラーキーのショットが山程あったよ。他にインタビューした人達のもね。それから急いで3分ぐらいの予告編をウェッブサイトに載せて、少しでも収益になるようにしたんだ。それはまあまあ上手くいったね。それから映画の構成について考え出して、編集も3人の日本人に日本語でやってもらったよ、映画自体が日本語だからね。僕は4つぐらいしか日本語を知らない。でもTravisはなかなか日本語が上手いよ。まあ、日本語の映画の編集をするまではいかないけどね(笑)。それからもカットしたり変更したりと随分と長い間作業が続いたね。その間にBjorkとかRichard KernのインタビューがNYであったんだ。それからまたTravisは日本に戻って、その後1回ラフカットがあった。DJ Krushのインタビューでは彼がこの映画のサウンドトラックやりたいって言ってくれて、それからE-mailでやり取りしたんだ。僕達が彼に曲のイメージなどE-mailして、彼がMP3をウェッブに出してくれて、また僕達が返事出してって感じでやって、すべてのトラックをE-mail上で完成させたんだよ。一応、編集が終わったのはフェスティバルの4日前だったけど、実はその後もしばらく編集を続けたんだ。本当に編集が終わったのは2004年の8月1日だね。

C:なぜそんなにも編集に時間がかかったのですか?

J:ショットがたくさんあり過ぎたんだ。だって50時間分ショットがあって、それをたった75分に編集しなくちゃいけなかったんだからね。やることだらけだったよ。あ、2つカメラがあったから倍だ。1時間半の映画を作るのに80時間分ものショットがあったんだよ!

C:アラキメンタリを通して何を主に伝えたかったのですか?

J:もともとの僕達のやりたかったことは、僕達が感じたアラーキーと、彼と共に過ごすことができた貴重な経験をみんなと分かち合いたいと思ったんだ。日本人にはアラーキーはとても知られている。だからほとんどの映画の内容は、日本人ならもう知ってるんだよね。日本人にはアラーキーの作品のことを理解してる人も多いと思うんだけど、それは環境や文化が違うからだと思うんだ。日本人だからアラーキーの(モデルを紐で縛るような)作品を見て、それから渋谷とかをイメージして、その相互関係を感じることができるのだと思う。でもたいていのアメリカ人は、ただ女の裸の写真を見て、ライティングを見て、それでおしまい。だから僕達の考えは、彼の写真にその撮影状況や彼の話などを織り交ぜて見せることで、アメリカ人がただ写真をみるだけじゃなく、実際に写真の内容や何がそこにあるのか全てを見ることができるようにするっていうことなんだ。それについては上手くいったと思うよ。アラーキーについて僕達が知らなかったこともいっぱいあった。映画を観終わった後にもう一度彼の作品を見ると全然違ったものが見えてくると思う。特に若い人達の目には新鮮なものに映ると思うよ。映画が始まる1時間前に見たものが、後で見るものとは全く違ってね。構造的には、はじめに「はい、これはヤラシイヌード写真です。」って見せて、それから彼についてもっと近づいていき、彼の実際の繊細な部分とか、奥さんの話など個人的なところを見せていったよ。それから彼が突然こんなにも有名になったことや、彼の本当の気持ちなどありのままの彼を見て、自分達もだんだん彼について感じ方が変わっていけたらと思ってね。そして最後にはクレイジーさとハッピーさを通じて、彼の気持ちの奥底にある寂しさや悲しさを感じるようになるんだ。

C:撮影中アラーキーはスタッフに優しかったですか?

J:彼はある意味では僕達に対してまるで自分の子供のように接してくれたよ。すごい優しいとかでなく。ビジネスの時はそれだけだけど、でも彼は本当に寛大な人柄でね、僕達をよく食事やカラオケに連れてってくれたんだ。彼は生粋の江戸っ子だよ。撮影が終わると「はい、じゃあ今から飲みに行ってパーッとやろう!」って、すごいクールだよね。僕が人生で出会った人の中でも彼は本当に特別な存在だよ。それに僕が会って話した人達のほとんどの女の人は、日本の女性に限らずこの映画やアラーキーを好きだという人が大半だった。でも中には全く反対の意見で、アラーキーはヌードばかり撮ってるって思う人もいる。でも実は多くの日本人女性にとって、アラーキーは女性を解放してくれる存在なんだと思う。アラーキーが女性を縛っているのと同じで、日本の女性は家や台所、そして日本の社会から束縛されているんだ。だから彼は、女性の服を脱がせたり彼女達を縛ったりすることで、逆に日本の社会から縛られている女性の解放を表現しようとしているんだよ。でもアメリカでは“女を縛ってるなんて気持ち悪いし、最悪な男だ!”っていう見方をするんだよね。僕が日本に行ってとても驚いたことは、日本ていう国はとても厳しい文化を持っている国だと思っていたんだけど、アラーキーが外で歩いてるとみんな「アラキさ〜ん!」って声をかけてくる。みんなアラーキーのこと大好きなんだよね。誰も「あのやらしいヤツだ、なんであんな写真撮ってるんだ!?」って言う人はいなかった。とてもクールなことだと思ったよ。



In Tokyo, with Travis Klose (Director) -----

この日、公開を目前に控えた映画『アラキメンタリ』の監督Travis Kloseと待ち合わせをしたのは、彼が今回東京滞在中の活動の拠点を置いている高円寺だった。アソシエイト・プロデューサーであるMasaさんと一緒に現れた彼は、開口一番、日本語で「はじめまして!」と笑顔で挨拶をしてくれた。焼酎を飲み過ぎて二日酔いの彼は、日本文化が大好きだと言う。彼らが連れて行ってくれたのは、どこかしらニューヨークの「ヴィレッジ」を思い出させる雰囲気のカフェであった。3月5日の公開に向けて、現在各メディアからのインタビュー漬けの毎日。「大変ですね」というと「楽しい」とまた笑顔で答えてくれた。彼は日本語を少し話す。今まで受けてきたインタビューも答えられるところはなるべく日本語で答えてきたと言う。難しい部分はMasaさんがカバーしているのだそうだ。


COOL:まずTravisさんが映画製作に興味をもったきっかけと『アラキメンタリ』を撮ることになった経緯を教えて下さい。

TRAVIS:最初に映画製作に興味を持ったのは7、8年前でした。元々、僕は音楽を作りたかったんです。大学で音楽を学んだ後、音楽、映像、ストーリーなど色んな要素を組み込んだ映画というもののおもしろさに気づきました。はじめてアラーキーを知ったのは『東京ラッキーホール』という彼の写真集を目にしたときです。そこにはモノクロの歌舞伎町の風俗とセックスの世界が広がっていました。それは暗くて怪しげで、とても不思議な世界でした。僕はこれがどうして“アート“として理解できるのか分かりませんでした。今までドキュメンタリーを撮ろうと思ったことはありませんでしたが、このよく理解できない日本の文化と、この写真を撮ったのはどんな人なのだろうということに興味を持ちました。ドキュメンタリーと言っても、“19XX年にアラーキーXXを発表”などというようなものではなくて、もっとアラーキーという人間像、アーティスト観、仕事の仕方というのを撮りたいと思ったんです。

C:どうしてそんな日本の文化に興味を持ったのですか?

T:よく分かりません(笑)。僕は10年以上日本に興味を持ち続けていました。どうしてだか分からないけど、とにかく日本は面白いと思っていました。人と人との関わり方とか、環境や他人に対しての接し方がアメリカよりもいい感じだなぁと思いました。それと日本のアニメも好きでしたし。とにかく僕は日本にとてもインスパイアされていたんです。

C:『アラキメンタリ』を撮りはじめる以前にも日本にはよく来ていたのですか?

T: いいえ。日本を訪れるのはその時が初めてでした。

C:初めて東京を訪れたときの印象はどうでしたか?

T:とても居心地がよかったです。本当に。僕にとっては日本はそんな早く動いてなくてとてもリラックスできました。居心地がいいけど刺激的な場所でした。

C:監督として撮りたかったモノ、作りたかったモノはできましたか?

T:ええ。実は最初アラーキーは僕たちに2日間しか撮影期間をくれませんでした。過去に外国人の撮影スタッフとの苦い思い出があったようで・・・。でも最終的には10日間も撮影できたんです。その10日間でほぼ満足のいくものが撮れました。撮影から1年半後にもう少し撮りたい部分があってまた日本に戻ってきたのですが、それはアラーキーではなくて東京について撮り足りなかった為でした。アラーキーは僕が撮りたいとお願いしたものは大体なんでも撮らせてくれました。裸のモデルさんなども全然問題なく撮らせてもらえました。でもアラーキーの自宅やプライベートなことは一切撮ることが許されませんでした。一度信頼を得ると彼は本当に協力的で、僕たちが撮影しやすいようにちゃんとセットアップしておいてくれたりするので、すごくスムーズに撮影ができたんです。

C:アラーキーとの夜遊びはどうでしたか?

T:すごく疲れましたね。(笑)すごくパワーのある人です。夜な夜な飲み会やパーティ三昧の日々で、毎晩一緒に酔っぱらいました(笑)。当時僕は26歳、アラーキーはおそらく62歳(?)くらいでしたが、常に彼の方が元気でした。仕事もプライベートも常にパワフル。これにはとてもびっくりしました。

Masa:トラヴィスはとても日本人的なセンスを持っているのだと思います。約束の15分前にはちゃんと来て待ってたり、日本では当たり前だけどアメリカにはない習慣をきちんと理解している。そこを荒木さんが感じ取ってくれてかわいがってもらっていたようです。

C:私の荒木さんのイメージは(おそらくほとんどの人も同じく)「エッチなおじさん」でした。でも『アラキメンタリ』を見て、そのイメージが変わりました。

T:そう、僕もそうなんです。『東京ラッキーホール』を見る限りでは、この写真を撮った人はただ「エッチな人」という印象でした。だけど撮影を進めていくにつれてアラーキーの卓越した感覚と人柄を知ることができたんです。今は彼を尊敬していますし、とても楽しくて素敵な方だと思っています。

C:この作品はトラヴィスさんにとっての監督デビュー作となるわけですが、今までの映画製作との違いは何でしたか?

T:まずドキュメンタリーを作るということが初めての経験でした。ニューヨークで映画作りを学んでいたときに、小さな映画はいくつか作ったことがありました。でもドキュメンタリーは僕が今まで作ったことのあるものとは全然違ったんです。通常、まず最初にアイデアが浮かんだとして、それを映画にしようとするとそれからストーリーを考えますよね。それでそのストーリーを映画にするためには、幅広く色々あったアイデアを経済的な条件とか撮影条件とかによってどんどん絞っていくんです。丁度ピラミッドのようなカタチで頂点に向かってどんどん制作を進めていきます。でも今回はその逆で、ドキュメンタリーにおいては何が正しいとかがないので、どんどんやれることが広がっていくのです。そしてそれがストーリーになっていく。それはすごく難しかったけど、制作を進めて行くに従ってアラーキーに対する見解が変わっていったのが面白かったですね。

C:トラブルとかはありましたか?

T:もう沢山ありましたね。まず僕達にはほとんど制作費がなかったので、時に本当に苦しいこともありました。最初は編集も自分達だけでやろうと思っていたんです。自分には、映画の中で人々が何を言おうとしているのかという主旨を表現できるくらいの日本語能力はあると思っていたのですが、すぐに自分にはそこまでの日本語を理解できないことに気が付かされました。誰か日本語の部分を助けてくれる人が必要だったんだけど、僕には誰かに仕事を頼んで、それに対して払えるお金がなかったんです。撮影の時はジェイソン(プロデューサー)達と一緒に3人で安い外人ハウスの1室に泊まっていたのですが、2人はベッドで、僕は布団で寝てました。他の2人は暑がりで常に窓が開いていたので、僕は毎晩寒い思いをしていたんです(笑)。

C:『アラキメンタリ』を通じて伝えたいことは何ですか?

T:うーん、難しい質問ですね。「アートとは?」「人生とは?」のような問い掛けに対しての答えとも捉えられるし、且つ、そこからさらに新たに問い掛けてるような感じでもある。アラーキーの仕事を通してのメッセージは「人生とはセックスだ」みたいな感じでしょうか。でも僕はこの映画の中で、ひとつのメッセージだけを伝えようとはしていません。

C:『アラキメンタリ』を見て、荒木さんはなんて仰ってましたか?

T:好きだって言ってくれました。すごくラッキーだって。

Masa:下北沢に『ラ・カメラ』っていう毎月荒木さんがポラロイドだけを展示するギャラリーがあるんですけど、2003年にそこで初めて荒木さんがこのフィルムを見たんです。すごい狭いところなのに50人以上集まって、荒木さんは、恥ずかしがったり笑ったりうなったりしながら見ていて、「うわぁ、あとでなんて言われるんだろうなぁ」ってドキドキしていました。その後近くの飲み屋に行く途中、いつもは荒木さんがずんずん先を歩いちゃうんですけど、その日は僕たちの歩調に合わせて狭い道をかに歩き状態で歩きながら、「いい映画を作ってくれてありがとう」と言ってくださいました。最後の記念撮影の時なんて、荒木さんはトラヴィスの口にキスしてましたから。

C:次に手掛けようとしているプロジェクトについて教えてください。

T:『ヤクザメンタリ』です。椎名林檎さんに撮影依頼をしようと思っています。イギリスのロックグループのピンクフロイドを映画化した『ザ・ウォール』(参考:http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=19562) みたいな感じのものを考えています。彼女自身と彼女の音楽を元に、椎名林檎とヤクザとのフィクションストーリーを考えて、日本に来てドキュメンタリーを撮っている撮影スタッフと一緒にドキュメンタリーの手法で撮ろうと思っています。内容はフィクションだけどドキュメンタリーのような映像になると思います。

C:映画製作以外で今後何かやりたいことはありますか?

T:僕にとって映画製作は本当の仕事じゃないと思うんです。僕は何かを作ることによって人生を楽しんでいこうと思っているだけなんです。僕は写真を撮るのも好きだけれど、自分は写真家になれるとは思わない。でもとにかく映像や音楽、写真など、アートに満ちた人生を送っていけたらいいなと思っています。



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Travis Klose ( Director)
ニューヨーク大学芸術学部映画・テレビ学科卒業。『スパイダー・マン』(02/サム・ライミ監督)や『ユマ・サーマンの運命の人を探して』(02/ミーラー・ナーイル監督)などの重要な作品でカメラマンやロケーション・アシスタントとして活躍中。

Jason Fried (Producer)
インタラクティブ・コンピューターデザインの世界ではパイオニア的な存在。「アラキメンタリ」のプロデューサーとして、またサウンドマンとして東京の撮影現場に参加。現在は自ら監督としてデビューを飾る為に、ドキュメント作品「mass incarceration」をアメリカで計画中。

『アラキメンタリ』のDVD、ビデオは2005年4月に発売予定。



text by Sayako MAEDA(Jason), Mieko SAI(Travis)
言語
English / 日本語
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