『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
火薬を使ったダイナミックなインスタレーションなどで知られている、中国出身のアーティスト蔡國強(Cai Guo-Qiang)。今やアジアを代表するアーティストのひとりとして、ニューヨークを拠点に活動し、日々世界中を飛び回っている。彼がニューヨークという場所を活動の拠点として選んだ理由や、アーティストとしての活動を通じて感じた、ニューヨークと日本のアートシーンの現状とその違いについて話を聞いた。
----- ニューヨークでの活動について
COOL:なぜニューヨークを仕事の拠点として選んだのですか?
蔡國強:まず1986年に中国から日本へ渡りました。日本には8年半ほど住みました。中国で生まれて、その後も日本で活躍していたことでずっとアジアばかりでした。90年代初めヨーロッパでの仕事をはじめた頃も、ヨーロッパに行くのはいつも展覧会の時ばかりで、ヨーロッパの人々と出会うことができなかった。それにアメリカではあまり仕事の機会がありませんでした。でもせっかく現代美術をやっているのだから、チャンスがあれば活動の場を広げ、アメリカやヨーロッパに住んで仕事がしたかった。それに20世紀はアメリカの正義といわれていたので、そのような国で実際に住んで、いろいろ考えながら仕事をしてみようとも思っていました。そして1991年、アメリカ側から日本の国際交流基金のひとつ、ACC(日米芸術家交換プログラム)への参加要請があったのですが、その時は日本人ではないということで結局却下されてしまった。しかし、1994年頃から日本の現代アート作家として国際展に作品を出展するようになり、そうしているうちに外務省や大使館などの招待で海外に行くと日本の作家の一人として認められはじめるようになりました。そして1995年にアメリカから再度ACCの申し出があり、ついにアメリカに来ることができたのです。
C:あなたにとってニューヨークはどんな場所ですか?
蔡國強:ニューヨークに住むと世界の広場にいるみたいです。いろいろな国の人々がニューヨークという広場にきて交流するという感じです。ニューヨークにいると自分から出向かなくても周りが自然と集まってきます。だから仕事をする上でもとても便利になりました。
C:アメリカでは、アジアのアートはどのように評価されていると思いますか?
蔡國強:アメリカ人はヨーロッパ人のように異国趣味的にアジアの芸術を見ているとは思いません。アメリカという国が多国文化なので、外国の文化だから興味を持つということがないんです。アジア系・ラテン系・アフリカ系といろいろありますよね。アメリカは、アジアのテーマの展覧会をしても、アジアだから評価されるということにはならないんです。逆にアメリカで評価されて活躍するということは、作家の作品・活動そのものが評価されているということなんです。時々、ベルリンやパリにいるアジア出身の作家の状況を見ると、人々に愛されてはいるけれども、作家や作品に対する評価はどうなのかと疑問に思うことがあります。その点アメリカは作品に対しての評価が正直で良かったと思います。最近、村上さん(村上隆氏)がアメリカで評価されたことも、アメリカ人が日本を好きだからということではなく、彼のやっていることや作品が、アメリカ人にとって面白かったし、楽しかったからなんですね。
C:アメリカと日本では活動するにあたってどのような違いがありますか?
蔡國強:まず日本へ行ってよかったと思うのは、日本が近代化、民主化した国だったことです。さらに人々がとても親切でした。アマチュア、若い芸術家の活動として、日本は大変良い国でした。その理由のひとつとして日本の一般のギャラリーは貸し画廊というシステムがあり、作品を発表する場があるということです。福島県いわき市へ行った時は、市民の方とコラボレートとして「地平線一環太平洋」という作品を作り上げました。いわきの町の人達に愛され、町全体がひとつになったという感じでした。当時の日本の美術界は、現代化・国際化したけれども、その反面西洋化したんじゃないかという批判もありました。ちょうどその頃の日本にいたので、そういった美術界の流れ、社会の雰囲気、いろいろな批評・考えの中にいることでとても勉強になったんです。市民とコラボレートするというコンセプトで活動するならば、日本はとても活動しやすい場所です。若い人によく言うのですが、若いときにニューヨークでがんばるのは大変ですよと。むしろ日本で好きなことをやって、自分のスタイルややりたいことを見つけてからアメリカで挑戦すればよいと思います。アメリカはアートに関するシステム(美術館、ギャラリー、コレクター、オークションハウス、マスコミ)が十分に発達しているので、ある程度力がついてきてからアメリカに来ると活動しやすいと思います。
C:実際にアメリカで活動されてどのように感じていらっしゃいますか?
蔡國強:アメリカは厳しくて、激しい。しかしそれが良いところです。例えば日本で仕事をしていたとき、作品に対する文評を読むと概ね良い評価のものばかりです。でもアメリカでは、良い評価のときもありますが、反対に大批判されることだってあるのです。
C:やりにくい面はありますか?
蔡國強:たくさんありますよ。日本にいたころは、市民とコラボレートして作品を作るということができました。私自身も日本語が話せることで、作品のコンセプトを自分の言葉で伝えることができました。また、アジアの哲学は中国から発生しているので、同じアジアの民族として自分の意図するところが伝えやすかった。アメリカでは、英語で自分のコンセプト・哲学を伝えるのは難しく、またアメリカではすべてがビジネスなので、市民とコラボレートするということ自体、多くの問題を孕んでいます。例えば、ボランティアを雇った場合、何かあった場合の責任の所在などすべてが契約で成立している社会なので、アメリカでは一般市民とのコラボレーションはなかなか実現しないのです。
----- 自身の作品について
C:最近の仕事について教えてください。
蔡國強:今年のはじめには、アメリカ・ニューメキシコ州のサンタフェにて「INOPPORTUNE」展がありました。3月にはイタリア・トスカニーで「Official Ceremony for The Permanent Installation of UMoCA」、5月は中国で「Long March: Chinese Contemporary Art Education Panel」、4月25日から10月29日までは、ニューヨークのメトロポリタン美術館で「Cai Guo-Qiang on the Roof:Transparent Monument」があります。そして6月には、今までで最大のマンマンショーがカナダのナショナル・ギャラリーで行われる予定です。
C:忙しそうですね!
蔡國強:展覧会ごとに新しい作品を製作するので大変でしたね。ロングアイランドの花火工場でドローイングを作り、中国の工場で火薬を調合しアメリカに送ってもらっています。
C:どういったところから作品のテーマを見つけるのですか?
蔡國強:9・11(ニューヨークの同時多発テロ)の後はテーマも作品の作り方も多岐に渡ってきました。火薬で虹をイーストリバー上に作ったり、街の彩りを表現したり、テロに対する現代社会の不安感をテーマにした昼の太陽の下で黒い虹を作ったりもしました。また車を使った作品は、自爆テロなどの作品を製作するきっかけにもなりました。
C:作品に風水を使ったものが見受けられますが、もしやこのスタジオの配置などにも風水が活かされているのでしょうか?
蔡國強:もちろんです。スタジオを選ぶときも風水が最優先です。実際、スタジオを購入した後でも仏様をどこに置くかとかね。ドアとドアの間にライオン石を入れたりもしましたよ。女性のスタッフが多く、いつも仕事ばかりで忙しいので恋人ができないと苦情が出た時は、何か良いご縁が来るようなものを考えて置いたりしました。スタジオには、日本的な庭も作りました。大体、展覧会をするにしても、その町の文化とか、人々の歴史とか、その空間のエネルギーとかいったものは全て風水なのです。地と気、気は見えないエネルギーですから、それらを大切しながら作品の構想をねったり作ったりしています。必ず毎回作品に対して「これが風水です」と直接的には言いませんが、美学とか視覚的に見えない方法で(風水を)意識しながら作品を作っています。
C:火薬を使った作品を制作する上で、花火の玉の中にマイクロチップを入れ爆発高度をコントロールする技術を開発されましたが、マイクロチップを導入する前と後ではどのように作品が変わりましたか?
蔡國強:まず以前は火薬そのものが危ないと言われていましたね。2001年頃から花火にマイクロチップを内蔵する開発をはじめましたが、それまでの花火はすべて導火線で爆発させ、導火線の長さで爆発のタイミングを計っていました。さらに導火線は手作りのものなので花火の形、爆発させる順番を確定させる作業は大変難しいものでした。マイクロチップ入りの花火の場合は爆発の高度・タイミングすでに計算されています。例えて言うなら2000人のチケットを持った観客がそれぞれのチケットの書かれている座席に間違いなく座るようなかんじです。2000発の花火も自分の決められた高度・タイミングで爆発するのです。しかしながら、マイクロチップを導入して良かった点と悪い点があります。良かった点は、空そのものキャンパスのように使えるようになったことです。悪い点は高価なことです。高額なお金を使って何十秒間のアートということになるといろいろな面からプレッシャーがかかります。高価だから主催者側もマスコミを使ってたくさんの人を集めます。何十秒間のアートを見るために何万人の人が集まるとさらにプレッシャーが増します。そういったプレッシャーというのはもともとアートには関係のないものですけどね。今は資金と観客は集まりますが、空にあったものがアートであったかどうか、これで果たして作品になったのかという危うさがまだ残っています。
C:仕事をしていて楽しいときは?
蔡國強:いつもワクワクしています。作品をつくることはセックスと同じことだといつも冗談を言っています(笑)自分の作品は、失敗したからもう一度やり直すということはできません。一回、一回が本番で、やってみなければ上手くいくか、いかないかは分かりません。しかし終わったあとは楽しいだけです。上手くいっても、いかなくても。作品ができたときの楽しさや幸せはいつもありますね。
C:あなたにとって芸術とはなんですか?
蔡國強:自分のやっていること。芸術の目をもって世の中を見ると、政治家の選挙や街の工事現場でもすべてが芸術に見えてきます。
C:もし芸術家になっていなかったらどんな仕事をしていると思いますか?
蔡國強:想像できないですね。芸術家の他は考えられないです。作品を作ることに関しては自分でも時々上手いなぁと思いますが、それ以外はあまり上手ではありませんから(笑)
--------------------
蔡國強(Cai Guo-Qiang)
1957年、中国福健省泉州市生まれ。
1986~95年まで日本にて活動。
現在、ニューヨーク在住。
風水などの東洋の思想に裏付けられた独自の理念と、火薬を使ったダイナミックなプロジェクトやインスタレーションで知られる。「ヴェネツィア・ビエンナーレ国際賞」をはじめとする数々の国際的な賞を受賞。これまでも世界各国で数々の個展やグループ展を開催し、国際的に高い評価を得ている。
text by Nobuko MARUTA
PR
90年代よりニューヨークを拠点に活動を続けるアーティスト森万里子。昨年行われた「第51回ベネチア・ビエンナーレ」に出品された「Wave UFO」に引き続き、今年日本で公開された最新作のインスタレーション「Tom Na H-iu(トムナフーリ)」が話題を呼んだのはまだ記憶に新しい。現代アーティストとして成熟の時期を迎え、海外からも高い評価を受ける森万里子。今回はマンハッタンにあるまだ引っ越して間もない彼女のアトリエを訪ね、ニューヨークでのアーティストとしての活動と、彼女がずっと見つめ続けてきたニューヨークのアートシーンについて語ってもらった。
COOL:なぜ活動の拠点にニューヨークを選んだのですか?
Mariko Mori:はじめはロンドンに留学していました。それから、ニューヨークに「ホイットニー・インディペンデント・スタディー・プログラム」というのがあり、1年の予定でこちらに来たのがきっかけです。その後もニューヨークで活動を続けようと思った理由としては、とても自由であるということ。多様な国や文化の人達が住み、わたしたちにも平等にチャンスがあるというところですね。
C:こちらにいらした当時のニューヨークはどんな環境でしたか?
MM:もっと怖かったですね。とても危ない感じがしました。しかし今よりももっと自由でしたね。マンハッタンにはたくさんのアーティストが住んでいて、一緒にhang outすることもできたし、アーティスト達が集まるミーティングポイントがありました。画廊も今とは違って、チェルシーではなくSOHOにあり、オープニングに行けばいつもアーティスト同士のコミュニケーションがありました。当時はもっとローカルな感じで、ニューヨークのアーティスト達は仲良く協力していたという感じですね。でも今ではブルックリンやクイーンズへアーティスト達が‘移動してしまい、以前より海外在住のアーティストが展覧会をするようになり、だんだんとローカル性というものが希薄になってきたような気がします。
C:以前も海外からやってきたアーティストはたくさんいたわけですよね?
MM:その頃は、今よりももっと「自分はニューヨーカーだ」という意識を強く持っていたような気がします。もちろん本当の意味で、ニューヨークで生まれ育った人は1%にも満たないのかも知れませんが、以前からニューヨークにいたアーティスト達は、自分が何処の国から来たのかというよりも、もっとニューヨーカーとしての意識を持って制作しているという感じでしたね。
C:以前と比べて、現在のニューヨークのアートシーンはどのように変化したと思いますか?
MM:以前はあまりグローバルな感じではなく、どちらかというと、ニューヨーク自体が盛り上がっているような感じでした。でも最近は世界の舞台がニューヨークになり、海外から作家がきて、ローカルからグローバルな方向に変わってきたという感じですね。以前、SOHOに「American Fine Arts」という画廊がありましたが、そこはアーティストの登竜門みたいなところで、そこから発掘されたアーティストは、ニューヨークのアーティストとして認められました。様々な文化やジェンダーの作家の作品をアートワールドが評価するようになったので、ニューヨークのシーンで活躍している作家だけでなく、海外で認められた作家もとても活動しやすくなったのではないかと思います。
C:森さんにとってニューヨークの魅力とは?
MM:14年前にニューヨークへ来た当時は、たぶんニューヨークの魅力に惹き付けられたのだと思います。ニューヨークはアートに対するサポートが全然違のです。見返りを期待せずにサポートする。そういった情熱を持った人達がたくさんいます。蒔かれたアーティストという種にいっぱい水を注いでくれるから、アートもすくすくと育っていくのだと思います。そういった意味でニューヨークという土壌は、アーティストにとって大変育ち易い場所ではないでしょうか。私自身にとっては(このニューヨークという場所が)あまり磁場を感じない場所であると思っています。例えば、ヨーロッパへ行くと、重圧な歴史のある文化ですから、何かとても重い磁場を感じてしまうのです。そうすると自分の社会的な位置は、いつもアウトサイダーであり、私は社会に属さない立場のように感じられるのです。日本でも同じように長い歴史があり、完成された、あまり変動のない社会があります。私は日本でもアウトサイダーであり、同じように重い磁場を感じます。つまりどちらに行っても社会が決めたアイデンティティーしか持つことができないのです。ニューヨークにいると、様々な人が住み、多様な文化があり、許容範囲が広いというか…自分のなりたい人物像を想像し、自分らしく自由でいられることができます。
C:ニューヨークでアーティストとして活動するにあたって、重要なことは何だと思いますか?
MM:今、何が起こっているのかというのを知るには良いと思います。ただ(ニューヨークは)本当に展開が速い場所です。動向が変わったり、たくさんの人達が入れ替わったりして、とってもハプニングしている場所です。その中で一番難しいことは自分を失わないことだと思います。いつも自分のことをしっかりと見つめていて、自分の存在性だとか、実現したいことや、自分の希望だとか夢だとか、そういったものをしっかりと自分自身で分かっていないと、いつの間にかニューヨークにただ巻き込まれて、振り回されているだけになってしまうという恐ろしさがありますね。そして本当に一番大事なのは、ニューヨークに限らず、どんな仕事をしていても、何処に居ても、どんな時でもそれは言えることだと思いますが、自分を信じられる事、信じることではないでしょうか。
C:ニューヨークで活動していく中で、困難なことや不便なことはありましたか?
MM:ニューヨークでは特に周囲の動きが速いので、相手と一生懸命コミュニケーションしようとしないと誤解が生じることがあります。何か問題が起きる時は必ずコミュニケーションのミスや説明不足が原因です。日本の社会では言葉を交わさないでもお互いが理解し合えるということもありますが、もちろんこちらでそれは通じません。だからハッキリと「こうして欲しい」ということを相手に伝えることが大切です。私自身も来たばかりの頃はそれでよく泣いてましたね(笑)当時は小さな作品を作っていたのですが、それをひとつの工場では作れなくていくつかの工場に別けて発注したりすると、最後にそれらを合わせてひとつの作品にする段階になってそれが合わないとか。日本ではちゃんと寸法を知らせればその通りに制作してくれますが、こちらではなかなかそうはいかないのです。だから絶対にミスがないようにするには、実寸の型紙なんかを使って説明しないといけなかったですね。最近ではこちらも相手のキャパシティが分かってきましたし、向こうも私のデマンドが分かるので大丈夫ですが、もともとニューヨークにはいろんな人種の人達がいるので、自分と同じ価値観で仕事をしてくれるチームっていうものをつくるのが大変でした。そういった人達に出会うまでにとても時間が掛かりましたね。
C:森さんから見て、日本とアメリカの現代アートに関する認識の違いはどのような部分だと考えますか?
MM:日本の現代美術のシーンをあまり良く把握していないので、ハッキリとしたことは言えないのですが、ただ、作家達を育てていく環境作りというのがまだまだなのかなあと思いますね。まずアートをサポートするには、画廊とか美術館が揃っているだけではなく、欧米では一般の人達が実際にそれをコレクションするコレクターがいます。作品を理解して、愛して、それを収集するような人達がいないと、どんなにアーティストが頑張っても、実際に資金的なサポートがなければ継続できないのです。そういった、アーティストを育てていく土壌作りみたいなものがだんだんと行われているとは思いますけれども、まだまだなところもあるのかなあと思いますね。
C: 森さんは普段どのようなものからインスピレーションを受けるのですか?
MM:去年はスコットランドの遺跡、一昨年は日本各地の縄文の遺跡というように、いつもリサーチをしています。私の場合は、未来というものは過去にあるという気がするのです。過去からずっと続いてきている時間という沢山の「点」があって、それが 繋がって「線」となっていく。自分がひとつ「点」を打ち、次の時代の人がまたひとつ「点」を打って、またそれがずっと未来に繋がっていく。そういった意味で時間は、「メビウスの環」のようになっていると思うのです。問題は今にあっても、答えは今にあるとは限らない。だから今に答えを求めるのではなく、私の場合は未来を知るために過去に遡ってみるのです。
C:それでは最後に、最近の作品と日本で開催中の個展について聞かせて下さい。
MM:作品のタイトルは「Tom Na H-iu」といって、これは古代ケルト語で、「輪廻転生する前の魂の再生の場」というような意味です。一昨年ぐらいから縄文のリサーチで日本の各地を旅し、同時代の紀元前3000年のスコットランドの「スタンディング・ストーン(石柱)」を去年見てまわりました。そして自分が先史時代の太古の遺跡を見ているうちに、太古の人達の生死観というか、“死”に対するイメージというのが、壮大で宇宙的に感じられたのです。わたくしは、現代の「スタンディング・ストーン」を創りたいと思いました。(「Tom Na H-iu」は)星の最期の状況である超新星爆発の際に、「ニュートリノ」という物質がたくさん放出されるのですが、それを「神岡宇宙素粒子研究施設(スーパーカミオカンデ)」という施設で検出し、その検出データを受けて、宇宙で星が亡くなった時の「死の光」というものをイメージして、ガラスでできた「スタンディング・ストーン」の中に光の映像が映し出されるといった作品です。
--------------------
森万里子
チェルシーカレッジオブアート卒業。
ロンドン留学後、ニューヨークの「ホイットニー・インディペンデント・スタディー・プログラム」を経て、1993年よりニューヨークを拠点に活動。1997年「ベネチア・ビエンナーレ」にて優秀賞受賞。シカゴ現代美術館、ロサンジェルス州立美術館、ポンピドーセンターなどの世界の主要美術館で個展を行っている。
COOL:なぜ活動の拠点にニューヨークを選んだのですか?
Mariko Mori:はじめはロンドンに留学していました。それから、ニューヨークに「ホイットニー・インディペンデント・スタディー・プログラム」というのがあり、1年の予定でこちらに来たのがきっかけです。その後もニューヨークで活動を続けようと思った理由としては、とても自由であるということ。多様な国や文化の人達が住み、わたしたちにも平等にチャンスがあるというところですね。
C:こちらにいらした当時のニューヨークはどんな環境でしたか?
MM:もっと怖かったですね。とても危ない感じがしました。しかし今よりももっと自由でしたね。マンハッタンにはたくさんのアーティストが住んでいて、一緒にhang outすることもできたし、アーティスト達が集まるミーティングポイントがありました。画廊も今とは違って、チェルシーではなくSOHOにあり、オープニングに行けばいつもアーティスト同士のコミュニケーションがありました。当時はもっとローカルな感じで、ニューヨークのアーティスト達は仲良く協力していたという感じですね。でも今ではブルックリンやクイーンズへアーティスト達が‘移動してしまい、以前より海外在住のアーティストが展覧会をするようになり、だんだんとローカル性というものが希薄になってきたような気がします。
C:以前も海外からやってきたアーティストはたくさんいたわけですよね?
MM:その頃は、今よりももっと「自分はニューヨーカーだ」という意識を強く持っていたような気がします。もちろん本当の意味で、ニューヨークで生まれ育った人は1%にも満たないのかも知れませんが、以前からニューヨークにいたアーティスト達は、自分が何処の国から来たのかというよりも、もっとニューヨーカーとしての意識を持って制作しているという感じでしたね。
C:以前と比べて、現在のニューヨークのアートシーンはどのように変化したと思いますか?
MM:以前はあまりグローバルな感じではなく、どちらかというと、ニューヨーク自体が盛り上がっているような感じでした。でも最近は世界の舞台がニューヨークになり、海外から作家がきて、ローカルからグローバルな方向に変わってきたという感じですね。以前、SOHOに「American Fine Arts」という画廊がありましたが、そこはアーティストの登竜門みたいなところで、そこから発掘されたアーティストは、ニューヨークのアーティストとして認められました。様々な文化やジェンダーの作家の作品をアートワールドが評価するようになったので、ニューヨークのシーンで活躍している作家だけでなく、海外で認められた作家もとても活動しやすくなったのではないかと思います。
C:森さんにとってニューヨークの魅力とは?
MM:14年前にニューヨークへ来た当時は、たぶんニューヨークの魅力に惹き付けられたのだと思います。ニューヨークはアートに対するサポートが全然違のです。見返りを期待せずにサポートする。そういった情熱を持った人達がたくさんいます。蒔かれたアーティストという種にいっぱい水を注いでくれるから、アートもすくすくと育っていくのだと思います。そういった意味でニューヨークという土壌は、アーティストにとって大変育ち易い場所ではないでしょうか。私自身にとっては(このニューヨークという場所が)あまり磁場を感じない場所であると思っています。例えば、ヨーロッパへ行くと、重圧な歴史のある文化ですから、何かとても重い磁場を感じてしまうのです。そうすると自分の社会的な位置は、いつもアウトサイダーであり、私は社会に属さない立場のように感じられるのです。日本でも同じように長い歴史があり、完成された、あまり変動のない社会があります。私は日本でもアウトサイダーであり、同じように重い磁場を感じます。つまりどちらに行っても社会が決めたアイデンティティーしか持つことができないのです。ニューヨークにいると、様々な人が住み、多様な文化があり、許容範囲が広いというか…自分のなりたい人物像を想像し、自分らしく自由でいられることができます。
C:ニューヨークでアーティストとして活動するにあたって、重要なことは何だと思いますか?
MM:今、何が起こっているのかというのを知るには良いと思います。ただ(ニューヨークは)本当に展開が速い場所です。動向が変わったり、たくさんの人達が入れ替わったりして、とってもハプニングしている場所です。その中で一番難しいことは自分を失わないことだと思います。いつも自分のことをしっかりと見つめていて、自分の存在性だとか、実現したいことや、自分の希望だとか夢だとか、そういったものをしっかりと自分自身で分かっていないと、いつの間にかニューヨークにただ巻き込まれて、振り回されているだけになってしまうという恐ろしさがありますね。そして本当に一番大事なのは、ニューヨークに限らず、どんな仕事をしていても、何処に居ても、どんな時でもそれは言えることだと思いますが、自分を信じられる事、信じることではないでしょうか。
C:ニューヨークで活動していく中で、困難なことや不便なことはありましたか?
MM:ニューヨークでは特に周囲の動きが速いので、相手と一生懸命コミュニケーションしようとしないと誤解が生じることがあります。何か問題が起きる時は必ずコミュニケーションのミスや説明不足が原因です。日本の社会では言葉を交わさないでもお互いが理解し合えるということもありますが、もちろんこちらでそれは通じません。だからハッキリと「こうして欲しい」ということを相手に伝えることが大切です。私自身も来たばかりの頃はそれでよく泣いてましたね(笑)当時は小さな作品を作っていたのですが、それをひとつの工場では作れなくていくつかの工場に別けて発注したりすると、最後にそれらを合わせてひとつの作品にする段階になってそれが合わないとか。日本ではちゃんと寸法を知らせればその通りに制作してくれますが、こちらではなかなかそうはいかないのです。だから絶対にミスがないようにするには、実寸の型紙なんかを使って説明しないといけなかったですね。最近ではこちらも相手のキャパシティが分かってきましたし、向こうも私のデマンドが分かるので大丈夫ですが、もともとニューヨークにはいろんな人種の人達がいるので、自分と同じ価値観で仕事をしてくれるチームっていうものをつくるのが大変でした。そういった人達に出会うまでにとても時間が掛かりましたね。
C:森さんから見て、日本とアメリカの現代アートに関する認識の違いはどのような部分だと考えますか?
MM:日本の現代美術のシーンをあまり良く把握していないので、ハッキリとしたことは言えないのですが、ただ、作家達を育てていく環境作りというのがまだまだなのかなあと思いますね。まずアートをサポートするには、画廊とか美術館が揃っているだけではなく、欧米では一般の人達が実際にそれをコレクションするコレクターがいます。作品を理解して、愛して、それを収集するような人達がいないと、どんなにアーティストが頑張っても、実際に資金的なサポートがなければ継続できないのです。そういった、アーティストを育てていく土壌作りみたいなものがだんだんと行われているとは思いますけれども、まだまだなところもあるのかなあと思いますね。
C: 森さんは普段どのようなものからインスピレーションを受けるのですか?
MM:去年はスコットランドの遺跡、一昨年は日本各地の縄文の遺跡というように、いつもリサーチをしています。私の場合は、未来というものは過去にあるという気がするのです。過去からずっと続いてきている時間という沢山の「点」があって、それが 繋がって「線」となっていく。自分がひとつ「点」を打ち、次の時代の人がまたひとつ「点」を打って、またそれがずっと未来に繋がっていく。そういった意味で時間は、「メビウスの環」のようになっていると思うのです。問題は今にあっても、答えは今にあるとは限らない。だから今に答えを求めるのではなく、私の場合は未来を知るために過去に遡ってみるのです。
C:それでは最後に、最近の作品と日本で開催中の個展について聞かせて下さい。
MM:作品のタイトルは「Tom Na H-iu」といって、これは古代ケルト語で、「輪廻転生する前の魂の再生の場」というような意味です。一昨年ぐらいから縄文のリサーチで日本の各地を旅し、同時代の紀元前3000年のスコットランドの「スタンディング・ストーン(石柱)」を去年見てまわりました。そして自分が先史時代の太古の遺跡を見ているうちに、太古の人達の生死観というか、“死”に対するイメージというのが、壮大で宇宙的に感じられたのです。わたくしは、現代の「スタンディング・ストーン」を創りたいと思いました。(「Tom Na H-iu」は)星の最期の状況である超新星爆発の際に、「ニュートリノ」という物質がたくさん放出されるのですが、それを「神岡宇宙素粒子研究施設(スーパーカミオカンデ)」という施設で検出し、その検出データを受けて、宇宙で星が亡くなった時の「死の光」というものをイメージして、ガラスでできた「スタンディング・ストーン」の中に光の映像が映し出されるといった作品です。
--------------------
森万里子
チェルシーカレッジオブアート卒業。
ロンドン留学後、ニューヨークの「ホイットニー・インディペンデント・スタディー・プログラム」を経て、1993年よりニューヨークを拠点に活動。1997年「ベネチア・ビエンナーレ」にて優秀賞受賞。シカゴ現代美術館、ロサンジェルス州立美術館、ポンピドーセンターなどの世界の主要美術館で個展を行っている。
text by Sei KOIKE, photo by Akiko TOHNO, Richard Learoyd
COOL:先ず始めに、現在手掛けているお仕事について教えてください。
TAKASHIRO:ええと、もうじきDVDが出ます。本業はコンピューター使って映像作る職種なんですけど、最近僕DJをやっていて、DJとして選曲してVJとして映像付けたDVDをリリースします。ユニバーサル・デフジャムから9月7日発売です。
C:先日“ageHa(新木場にあるクラブ <http://www.ageha.com/>)”でVJとしてイベントをされていましたけど、いかがでしたか?
T:もう、めちゃめちゃ盛り上がりました。(クラブ内にある)プール開きだったんですけど、プールパーティみたいな感じになって盛り上がっちゃって、人が入りきれなくって途中で入場規制をしていました。
C:DJを始めたのはどうしてですか?
T:去年の夏に僕は40歳になったんですけど、毎年新しいことを一個ずつやろうと思って、それで始めました。DJというとクラブでやるものだと思うんですけど、そうじゃなくてクラブでやらないDJを目指しています。いつも新しいメディアと新しい場所を探し続けることを考えているので。僕のホームグラウンドはお茶の間なので、お茶の間で楽しんでいただける、家で聴いて楽しんでもらえるようなDJになれたらいいですね。
C:VJは10代の頃からされていたそうですが、何に影響を受けていましたか?
T:僕は日大芸術学部だったんですけど、その頃から問題児だったんで、「大学の先生に教わることはない」とか言って、ニューヨークまで行って、ジムジャームッシュとかスパイクリーとか観てきました。僕にとって海外の影響は大きいですね。80年代のニューヨーク・インディペンデントの映像シーンとか、そういうサブカルシーンとか音楽シーンとかにすごく影響を受けていました。
当時、クラブと言うとパラダイスガレージが盛んだったんで、80年代後半は毎週のように行っていました。
C:ジムジャームッシュやスパイクリーって、今でもアナログを大事にしているような印象があるので、高城さんのデジタル的な印象とは逆のような気がするのですが・・・
T:彼らと同じことをしたら80年代で止まってしまうので、僕はそれを越えて行くというか、彼らのそういうスピリットに影響受けつつ、最先端のテクノロジーとメディアを駆使していきたいなと思っています。
C:毎日20時間くらい働いているそうですが・・・
T:働いているというより、どっちかっていうとクリエイティブなことをしているということですね。4時間半くらいの睡眠が丁度よいんです。
C:常に新しいことを取り入れて、更に新しいことをやっていっているのが高城さんだと思うのですが、情報収集をしたり、アイデアを練る時間はどうやって確保しているのですか?
T:まず僕は情報収集はしない。モニターはあるけどテレビはないです。チューナーをもっていないので。WEBもまず見ない。雑誌も読まない。情報ダイエットをしています(笑)。インターネットとかで得た情報は、行ったこと無いけど知ってるっていうのが多くて、そこで終わっちゃってるの。これを情報デブと言ってるんですけど(笑)、そういう情報収集をやめると痩せたり、ほんとの情報を得ようとする。行って、「あ、ほんとだ」って思う。正直、情報は今はもう捨てていく時代です。収集しない。本当に必要なモノだけを残すべきだと思います。インスピレーションは自分の中にあったり、行動することによってその場所でいろいろ感じたりするわけで。それでもう十分でしょ?
で、アイデアはどうしてるかっていうと、情報収集をしない代わりに自分と向き合う時間を大切にします。1日1時間半から2時間くらいは必ずそういう時間をとります。今日もずっとデニーズ(※)でメモしてたりして、こういうポストイットにメモしています。(ポケットからポストイットに書かれたメモが山のように!!)アイデアは常にここにいっぱい入っています。ポケットいっぱいのアイデアを一個一個実現していっているんです。
C:どうしてポストイットなんですか?
T:携帯電話で話しながらでも貼って書けるのでずれないし、ゴミみたいだけど色んな色だしキレイじゃん?ははは、すごいいいかげん(笑)。僕はあんまりオシャレ系なクリエーターとは違うんですよね。
C:ハイパーメディア・クリエーターという肩書きはどうやって生まれたのですか?
T:大学生の時なんですけど、当時から僕は映像、音楽、グラフィックデザイン、メディアプロモーションなどいろいろと横断的にやっていて、ある時大学に取材に来た新聞記者の人が、君は映画監督でもないし、テレビのディレクターでもないしっていって名前をつけてくれたんです。紙媒体も携帯電話もテレビもライブもいろいろやって、メディアを越えて横断的に自分の表現をしていくというのが僕なんで。
C:これはなんですか?(小さいモニタと基盤が合わさっている見慣れないものがディスクに・・・)
T:それ、今作っているんです。モニタが寝てて、それを起こすと始まるっていうメディア。本て、こうやって立てて読むでしょ?だから、モニタもそうやって見ることができないだろうか、と、ほんと実験的に作っているんです。独学でいろいろやってみているんだけどね。基本的には秋葉系(※)なんだよね僕(笑)。ニューヨークに行くとずっとキャナルストリートでパーツを見ています。5番街なんて行かないですよ。あ、たまには行きますよ、仕事もあるんでね(笑)。
今年は1月にニューヨークに行きました。ソーホーにあるベイシングエイプのドキュメンタリー映画をプロデュースしているので、その撮影に行きました。そのすぐ側にあるルイビトンもクライアントですしね。(ルイヴィトン×村上隆のアニメーションムービー”SUPERFLAT MONOGRAM”をプロデュース)
日本を代表する世界のブランドとして、ベイシングエイプは応援していますね。
C:世界各地飛び周ってあちこちで活躍されていますが、どこが一番好きですか?
T:東京。自分の街だからね。日本が好きなんで日本を楽しみます。
1週間前までギリシャとかヨーロッパを周っていたのですが、昨日は湘南でロケ班して、そのあと海の家で遊んでいました。そして今週末は北海道に行きます。
しばらく僕は沖縄のブランディング、観光キャンペーンを手掛けていたのですが、それがかなりうまくいったので今度は北海道を手掛けるかもね。
基本的にクリエーターとかアーティストって、「作る」「作って伝える」っていう2つのことをやっているんですよね。昔のクリエーターやアーティストって、ただ作ればよかったけど、今は、作ってどう伝えるかっていうことまで考えないとだめな時代じゃないですか?僕は「作る」「作って伝える」の他に「伝える」っていう仕事もやっているんです。モノがあってどう伝えるか。メディアのプロ、コミュニケーションのプロとして、コミュニケーションを手伝って欲しいという依頼がすごく多いです。簡単にいうとクリエイティブもコミュニケーションですから。沖縄を盛り上げたりとかっていうのは、完全に「伝える」っていう部分だけやっています。もう素材は沢山あるし良いわけじゃないですか?綺麗な海はあるし、おいしいものは沢山あるし、楽しいし。それをどう伝えていくかというのを仕事として依頼されます。
あんまり自分がこうアーティストだとかコマーシャルはやらないだとかいうのはなくて、来た仕事を順番にやるというスタイルです。スケジュールさえ合えばどんな小さな仕事でもやりますね。
C:ニューヨークと東京、比べてみて自分の反応だとか評価だとか違いは感じますか?
T:今はあんまりないんじゃないですかね。東京葛飾柴又(※)生まれで根っからの日本人だし、日本が大好きで日本中をぶらぶら旅行したりしているんで、日本で受けないとニューヨークでも世界でも受けないんじゃないかなぁって思います。80年代ってニューヨークがおもしろい時代だったと思うんですよ。音楽もアートもクラブも全部。で、80年代後半から90年代前半ってサンフランシスコがおもしろくて、90年代後半はアムステルダムがおもしろくて、今は東京がおもしろいと思います。日本のファッションブランドは世界のパリコレでもニューヨークのソーホーでも活躍してるし、中田英寿のポスターなんかも世界あちこちで見られるし、日本人は世界で頑張っていると思います。
C:子供の頃の夢はなんでしたか?
T:ええと、小学校低学年の時に、将来の夢は「鳥」って書いておこられました(笑)。「いいなぁ、鳥って。働かなくていいし」って思って(笑)。
C:では、今の将来の夢は?
T:先のコトはわからないですよね。2010年くらいまでもう仕事が入ってしまっているし。
サッカーの仕事も結構来ているんですが、僕は全くサッカーわからないんです。中田英寿と仲良しなんですけど、彼は全くのコンピューター音痴。彼は夏と冬と年に2回しか休みがないのですが、どちらも僕と旅行していましたよ(笑)。僕がロンドンにいて、彼はイタリアでしょ?合流して、ブルガリア、ラトビア、リトアニアなど一緒に周りました。お互いにお互いの仕事のことが分からないのがいいんじゃないですかね?(笑)まぁ、いろんなジャンルの仕事が来ますが、順番にやって行きます。僕スターウォーズがすごい好きなんですけど、ギリシャ神話とかもそうだけど、自分の人生を三部作に捉えていて、第一部は今まで生きてきた自分は仮の自分であって本当は違うことに気づく。第二部は自分が本当にやらなくてはいけない仕事に向かって全うして色んな人に会いながら旅を続ける。第三部は最後の仕事を全うして人生を成し遂げる。僕は今第二部の終わりくらいかな?まだ僕は旅の途中だねぇ。
C:今後の予定は?
T:8年振りの書き下ろし「デジタルは終わった次は何だ」っていう本を出します。デジタル系の仕事はもちろん沢山来るので、お前がそれ言っちゃうの?って言われそうですが(笑)。日本人に向けた新しいコンセプトみたいなのを書くので、是非読んで欲しいです。最近読んだ本なんですが、マークレナードっていう人の本が面白かったんですよ。この人はビジョナリストなんですけど、次世代のビジョンをつくる、次はこうなるっていうビジョンをつくる商売で、日本にはないものですよね。この人のビジョンはヨーロッパでもダントツにいいと思います。この人はイギリスのブレア政権とかイギリスの景気の基本を考えていたし、今度はイギリスだけじゃなくて、ヨーロッパ全土を考えていて、非常に良い本でした。これに負けないくらい、日本の新しいビジョンを僕は作りたいですね。僕、身体鍛えるのにもはまっていて、体脂肪率は今7%くらいなんです。ジムにひたすら通っています。身体鍛えるとモバイル力があがるっていうか、遠くまで行けるじゃん?
--------------------
高城剛
映像作家/ハイパーメディア・クリエーター/フューチャー・パイレーツ代表取締役/東映アニメーション特別顧問
東京葛飾柴又生まれ。日本大学芸術学部在学中に、日本最大のビデオアート・コンペティション「東京国際ビデオ・ビエンナーレ」でグランプリを受賞。その後映像作家としてデビューし、デジタル時代の映像作家として全国的・世界的に注目を集めるようになる。近年では、全世界300店舗で上映されたルイヴィトン×村上隆のアニメーションムービー”SUPERFLAT MONOGRAM”をプロデュース。
ホームページ http://www.takashiro.com/
text, photo by Mieko SAI
最先端をリードするDJたちによって、ニューヨークの音楽シーン、クラブシーンは日々進化している。この激動するシーンを、今ニューヨークで最もホットなゲイクラブ「XL」のレジデントDJである DJ Gomi と、“Mash-Up”というDJスタイルの先駆者 DJ Babyblu が語ってくれた。
COOL:どのようにして「XL」や「B.E.D.」での仕事を手に入れたのですか?
DJ GOMI:パフォーマーでダンサーでシンガーでもあるアーティストのケビン・アビアンスと一緒に仕事をしていたんだけど、彼が「XL」のオーナーを紹介してくれたんだ。実は、世界的に有名なDJのジュニア・バスケスと知り合える機会も彼が与えてくれた。どうしてもジュニアと仕事がしたかったので、毎週彼が回しているクラブに行っては、デモを渡し続けてね。それが実ってジュニアと仕事できることになったんだ。
DJ Babyblu:1人で必死にここまでよじ登ってきたね。マネージャーもいないし。初めは無償で、もしくはビールが飲めるというだけでプレイしたよ。それで、誰かが気に入ってくれたら、どこかのクラブで使ってくれる。そんな感じで、ここまで来るのも時間が掛かったよ。
C:生き馬の目を抜くようなこの街で、どのようにしてトップを維持しているのですか。
BB:闇雲にイベントに参加するんじゃんなくて、自分が求めている業界の人たちと出会えるようなイベントを選んで出かけることが重要かな。毎日、山ほどのEメールやパーティーの招待を受け取るし、その全部に出かけるのは不可能。だから、関係を続けたいと思うような人たちに会えるパーティーを選ぶんだ。
G:ラジオを聞いて、今何が流行っているのかをチェックする。それから、発売されたばかりの新しい曲を友達がEメールで送ってくれる。僕は新しい曲を使うのが好きだから、毎週レコード屋に行っては数百枚のレコードを一通りチェックするのは習慣になってるね。全部は聴けないので、さわりを聴くだけだけど。
C:Babybluさんは新しいテクノロジーを使うのが好きではないと聞きましたが。
BB:DJはCDじゃなくて、レコードをプレーするべきだと思うんだ。僕はレコード盤崇拝者なんでね。
G:じゃあ、コンピュターも好きじゃないの?僕は、いつも新しいテクノロージーを歓迎するし、それをいち早く取り入れたいと思っている。
BB:“ファイナル・スクラッチ”を使っているDJを見たことがある。それは、とても感動的なものだったし、導入したいとも思うよ。
G : “ファイナル・スクラッチ”の感想は?
BB: 基本的にレコード盤だけでDJするのはとてもフィジカルな技術を必要とするよね。でも、
”ファイナル・スクラッチ”を使うと、あらゆる情報をコンピューターに取り込むので、DJはただ2枚のレコードを回すだけになる。ただ作業がシンプルになる分、より可能性が生まれるとも言えるかな。
G:DJたちは独自の技術やテクノロジーを日々開発している。例えば、CDプレーヤーはターンテーブルに取って代わってきているように。それは、ターンテーブルには無い機能があるから。そういう意味では、芸術的進歩は科学的進歩と密接に関わっていると言えるんじゃないかな。
BB:テクノロジーは、常に全てのことにおいて影響を及ぼすんだ。常にね。でも、それはあんまりロマンティックじゃないよね。人々はどれだけテクノロジーを取り入れて、時代を先取りしているかを考えたがる。まさにヒップホップなんかはテクノロジーがなかったら生まれなかった。
G:ベイビーブルーのテクニックといえば“マッシュ・アップ(複数の曲を一つの曲に合成する音楽製作手法の一つ)" でしょう。
BB: “マッシュ・アップ”は僕の人生みたいなもの。ミックスをあらかじめ録音しておくのは、ズルしているみたいで嫌だし、パフォーマンスしてる時に録音されたCDを流すのはつまらない。いつも何かをしていたいんだ。だから、その場で“マッシュ・アップ”するのが僕のスタイルさ。
G:アカペラやインストルメンタルのバージョンはオリジナル?
BB:僕はいつもオリジナルしか使わない。例えば、ボンジョビとハウスミュージックの「スター・ダスト」のミックスとか。できるだけ違う曲を組み合わせる。つまり、コーヒーにクリームを入れるとおいしい飲み物ができるよね。反対にクリームとクリームじゃ、ヘビークリームになってしまうし、コーヒーとコーヒーじゃ苦いコーヒーができるだけだ。違うものはお互いに引き立て合うっていうのが僕の哲学。
G:ハウスミュージックをミックスする理由は曲をスムーズにするため。これで、9分の曲だって作れてしまうんだ。だから、ハウスのDJは15時間だってプレーし続けられる。
BB : トイレに行きたくなるまではね(笑)。
G : そう、人で溢れ返っているところでトイレに行きたくなったら、もう悪夢だね。10分くらいのできるだけ長い曲を掛けてから(トイレに)直行するよ。
BB:でも、時間って無慈悲に経つんだよね。だから、時々、男子トイレも女子トイレも関係なく、空いてるのを使うしかないことがある。もし、列ができてたら「先に行ってもいい?」とか言ってね。大体みんなナイスなんだけど、たまに嫌なやつもいる。ちょっと目を離した隙にDJブースに入り込んで、勝手にDJし始める輩もいるんだ。
C:他の国に比べて、ニューヨークのオーディエンスはどうですか?
G:日本とニューヨークのお客さんを比べると、ニューヨークのほうが我がままかな?もし、選曲を1つでもし損なったら、すぐにブーイングを始めるんだ。特にゲイクラブは厳しい。彼らは耳が肥えているので、いい仕事をしなかったら直接ブースまで来て文句を言って、そそくさとクラブを出てしまうんだ。
BB:ニューヨークってのは、例えばロバート・デ・ニーロが入ってきて隣の席に座っても全く気付かないふりをするような所。ここに住んでるみんなが自分のことを恐ろしく重要人物だと思ってるんだ。ニューヨークは刺激的な街だけど、自信過剰や勘違いした人も多い。ロンドンやスペインでパフォーマンスすると、観客はただ単純に楽しみたくて興奮するんだ。それに比べてニューヨークは、シャンパン片手にベルベットのロープの後ろで、ふんぞり返ってるのがいいっていうイメージがあるみたい。
C:今までで、(DJをやっていて)一番印象に残っていることは何ですか?
G:ありすぎるね。毎週何かが起こるから。でもあえて挙げるなら、田舎のクラブでの出来事かな。そこは、サウンドシステムが最悪だったんだ。それで、たまたまトイレに行ってる途中で電気が落ちちゃった。僕はトイレの最中だし、音楽は切れちゃうし、みんな踊るの止めちゃって。それが一晩のうちで何回も起こったんだ。
BB:「WAX」っていうクラブでよくプレーしたんだけど、ワックスっていうだけにロウソクがクラブ中にあったんだ。ある時、いきなり男がバーの上に立って、ロウソクを体中にたらし出したかと思うと、女の子がブースまで来て、「おニューの下着見たいでしょ」ってドレスをめくり上げたんだ。問題なのは、有名なDJたちはフレンドリーじゃなくちゃいけないってことさ。でも僕の場合、DJしてる時はあまり話にのれないんだよね。
C:これからもニューヨークに住み続けるつもりですか?
G:うーん、分からないな。でも、今アジアのほうは刺激的で面白くなってきてるよね。アジアの国に行くと、決まって何かが起こるんじゃないかっていう、わくわくした気持ちにさせられるんだ。いつも最も刺激的な街にいたいと思っているからね。
BB:しばらくはニューヨークにいるつもり。でも、いつかは日本で住むか、少なくともそこでDJしたいと思っているよ。
--------------------
DJ GOMI
バークリー音楽学院卒業。ニューヨークのクラブ「XL」のレジデントDJ。マドンナやマライヤ・キャリー、その他多くのアーティストの曲を手がけ、伝説的なDJ、ジュニア・バスケスのメイン・プログラマー。最も新しいリミックスはジェシカ・シンプソンの"These Boots Are Made For Walkin'"に収録されている。
http://ggv.net/
DJ Babyblu
「マッシュ・アップ」というDJスタイルの先駆者。MobyやDirty Vegasなど、多くのアーティスト共演。TV、映画、ニューヨーク、ロンドン、バルセロナなどのファッションショーの音楽を手がける。
http://www.djbabyblu.com/
text by Ayumi UEDA & Takuya KATSUMURA, photo by Akiko TOHNO
沸き上がる歓声、鳴り止まない拍手。大歓声に包まれた会場で、車椅子に乗って舞台下に現れた Fred Benjamin は、ゆっくりと立ち上がって振り向き、片手を上げて笑顔で観客の声援に答えた。2003年の秋、恒例の特別講演で日本に訪れていた Fred Benjamin は、突如脳卒中で倒れ、一時は危篤状態にまで陥った。それから1年半余り、奇跡の復活を遂げた Fred Benjamin の復帰後初の公演は、大成功のうちに幕を降ろした。半年近い入院生活を経て、未だ麻痺が残る身体にもかかわらず、その不屈の精神で今回の公演の全ての振付けを行ったFred Benjamin。彼のダンスに対する情熱と、公演に賭けた意気込みについて本人に語ってもらった。
COOL:まず、あなたのプロフィールについて教えてください。
Fred Benjamin:名前は Fred Benjamin。ボストンはマサチューセッツ出身だ。幼い頃にダンスを始めて、さらにキャリアを積むために1962年にNew Yorkに移って以来ずっとここに住んでいるよ。
C:ダンスを始めたきっかけは何だったのですか?
FB:4歳の頃、僕の姉達がダンスを習っていてね。母親は彼女達をレッスンに連れていくのに僕も一緒に連れていかなきゃいけなかった。僕は末っ子だったしね、目を離しちゃいられなかったんだね。いたずらっこだったしな(笑)。それで結局僕もダンスクラスに入る事になった。それが全ての始まりだったよ。
C:本当に長い間ダンサーとして活動をされたわけですが、ダンスをするにあたって大切な事とはなんでしょう?
FB:バレエクラスでのトレーニングは僕にとって本当に大事だった。バレエのトレーニングのおかげでこれだけ長いキャリアを続ける事ができたといってもいい。ニューヨークに移って来てからもバレエを習っていたし、その後は『Hello Dolly』や『Promises Promises』というミュージカルもやった。『Hello Dolly』を演っていた頃には、自分のダンスカンパニーを始めて実験的なダンスも始めたんだ。それは1968年の事だった。とにかくずっとダンスを続けてきたんだ。
C:では、あなたにとってダンスとは何ですか?
FB:難しい質問だな。ダンスは僕が生涯続けられるものだし、ダンスこそ僕を前に進めてくれる。それほど僕にとって大切なんだ。ダンスがないとおかしくなっちゃうだろうね(笑)。
C:今回の公演では“Destiny’s Child”や“R. Kelly”といった最近のR&Bから、モダンジャズまで様々な音楽を使用されていますが、これは全てご自分でお選びになるのですか? また、それらはどうやって選ぶのでしょうか?
FB:曲は全て自分で選ぶよ。音楽を聴くと、音楽が僕に話しかけて来るんだ。ダンスとしてどうしたら良いか伝わってくるんだよね。
C:歌詞が話しかけてくるのですか? それとも音楽がですか?
FB:主に音楽だね。そのアーティストが伝えようとしているもの自体がだ。言葉だけじゃなくて、声そのものとかね。
C:ではインスピレーションは一体どこから得ているのでしょうか?
FB: いやあ、わからないな(笑)!とにかくインスピレーションがそこにあるんだ。音楽を聴くと頭の中に絵が見えるんだよ。それでこの曲をこういうダンスにしようって自然にわかるんだ。時には曲を聴いても何も見えてこない時もある。それは単に音楽を音楽として楽しむ瞬間だよね。僕にとって音楽を聴く事はほとんど仕事みたいなものだけど、自分で無理に絵を見つけ出す事はできないんだ。でも絵が見えてくる時は自分でコントロールなんてできない。とにかく向こうからやってくるんだ。
C:それは感情や気持ちとしての絵が浮かんで来るのですか? それとも実際にダンサーの体の動きが見えてくるのですか?
FB:そうだな…音楽が僕に絵を描いてくれるみたいなものだな。そしてその絵を今度は僕が観客に舞台で描いてみせるんだ。ダンスとしてね。
C:日本で脳卒中で倒れられてから、手術、治療、休養という長い期間ダンスから距離を置かれていたわけですが、その前と後では、ご自身や振り付けに何か変化はありますか?
FB:本当に長い期間だった。でも、何も変化はないよ。僕の中でダンスは常に続いていた。僕は同じ人間だしね。ただ少し変わった事といえば、今はもっと精神的に活動するようになった。というのも、以前は体を動かして振り付けをしていたし、そうすることによって自分が何を求めているかダンサー達に伝えられたけれど、今は(身体が不自由だから)言葉にするしかないからね。だからどんな振りを付けたいのかをダンスメンバーに伝えるために、言葉付きの絵を描く事も覚えたよ。自分だけの特別な言葉も作ったさ。そうやってダンサーに振り付けたけれど、やっぱり全てを言葉で伝えることはできなかったかな。それでも、今では本当に幸せに思っているよ。
C:今回のショーは復帰後初の作品ですが。
FB:とにかく幸せだよ。そして僕の為にまた戻って来てくれたダンサー達にも本当に感謝している。
C:あなたのショーで踊るダンサー達も、黒人、白人、アジア人と人種を問わず色々な人がいますね。彼らを初めとして、世界中にいるダンスをする若い人達についてどう思いますか?
FB: 彼らは本当に、本当に勇敢だと思うよ。なぜならダンスの世界は厳しいからね。それを克服して、実現させるのは非常に大変なことだ。だから新しいダンサー達には敬意を表するよ。それに僕は人種には興味はないんだ。僕が興味あるのは、ダンサーが持つダンスに対する愛情、ただそれだけなんだ。
C:今後のプランについて教えてください。
FB:とにかく常に仕事を続けていきたいと思っている。今までたくさんダンスの仕事をしてきたし、脚本も書いたりもした。芝居の脚本だね。でも書くのもいいけど、やっぱりダンスほどエキサイティングで満足を得られる仕事はなかったから、やっぱりこれからもダンスをやっていくよ。
--------------------
Fred Benjamin(フレッド・ベンジャミン)
1944年マサチューセッツ州ボストン生まれ。4才よりダンスをはじめる。1963年〜66年Talley Beatty Companyで踊り、Talley Beattyの影響を強く受ける。その後、ニューヨークに拠点を移し、『The Fred Benjamin Dance Company』を設立。Talley Beattyのモダンにバレエの要素を加えた“バレエ・ジャズ”という新しいジャンルの確立に貢献した。
text by Takuya KATSUMURA, photo by Noho KUBOTA