『COOL』は、世界で活躍するアーティストやニューヨークで注目のアートシーンなどを紹介していくアートマガジンです。創造するということ、かっこいいものを見ること、そこから感じる何かを世界中で共感できたらおもしろい!文化が違うとこんな違ったかっこよさもあるんだ!そんな発見・感動をしてもらえるボーダレスなアートマガジンを目指しています。現在、全米各地やカナダ、フランス、日本、中国などで発売中。誌面ではなかなか伝えられないタイムリーな情報や、バックナンバーに掲載されたインタビューなどをこのブログで公開していきます。
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★ーー★ーー★ーー★ーー★ECO@ASIANIASM〜環境★アジア!!★ーー★ーー★ーー★
エコ@アジアニズムは、地球温暖化や自然破壊を起こしてきた欲望消費文明を追いかける文化や経済の流れを変え、循環型社会を目指す、日本・韓国・中国のアーティスト達のARTムーブメントです。展覧会、シンポジウム、パフォーマンス、企業とコラボしたエコグッツ販売などを通じ、継続的に活動を続けていきます。今後、インド、アフリカなどにもネットワークを繋げていきます。
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現代では誰もが資本主義のシステムから逃れることはできません。それは均質な世界の序列化として外部から人を規定し、欲望の操作として人の内面を支配しています。アーティストは、世界が決して眼に見える通りの透明な場所ではなく、不透明で、不整合な操作が介在して今目に見える均質な世界が作られているということを体現します。
とりわけ今アジアにおいて、操作は高度な形で進行しています。それはアジア全体を覆うシステムの均質化と、ナショナルな近代史のねつ造という一見矛盾した、しかし同じ目標へ向かうプロジェクトです。これはアーティストにグローバルであり、ナショナリズムであることを同時に擬装するシステムに対して、序列と欲望の二重性を素材とし、対象化するという課題を与えています。
過去においてアジアのアーティストはヨーロッパの近代というただひとつの目標を目指すことによって、むしろ分断されていました。エコ@アジアニズムは、彼らが互いの差異を発見し、見えないシステムから脱出する為の手段なのです。 山野真悟(横浜トリエンナーレ2005キュレーター)
アジア全域にもたらされた欲望資本主義は、便利さと引き換えに地球温暖化や自然破壊・公害という歪みをもたらしました。気がつくと灯油も食べ物もみーんな値上げ!!自分たちが使う油にも事欠いているのに、米軍の給油のことばっかり気にする日本政府っ
て、どんだけKYなんだッつーの!! 気がつくと全てが悲鳴を上げています。やれやれ。
汚い空気や水。四角いコンクリートの中で会った事も無い金髪セレブに憧れるなんて、なんだか苦しくない?ゆっくりとわたしやあなたを感じる新しい時代の生き方を始めませんか?
そんなわけで、“見る人”と“つくる人”が互いに影響をうけあう場をつくってみました。企業とアートの共同企画によって「面白くてかわいい」エコグッズを開発し、社会のいたるところにカッコいいエコを広げていきます。
アートとエコロジーをアジアから発信する事によって、地球のすみずみまでお互いに影響を受け合う、ワクワクしちゃう循環型社会を作りましょう!! 増山麗奈(アーティスト/キュレーター)
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エコ@アジアニズム No.1 環境アート展 in 銀座
2008年1月28日(月)〜2月9日(土)
@銀座芸術研究所×exhibit Live & Moris
(2カ所同時開催★入場無料 日曜休)
銀座芸術研究所 15:00~20:00(最終日18:00まで)
★中央区銀座7‐3‐6(洋菓子ウエストの二階) 03-5537-5421
http://homepage3.nifty.com/ginken/
exhibit Live & Moris 12:00~19:30(最終日18:00まで)
★東京都中央区銀座8‐10‐7東成ビル地下 tel 03-5537-0023
2月2日(土)17:00~レセプションパーティー(銀座芸術研究所にて)
2月6日(水)12:00~麗奈タンの似顔絵屋さん( Live & Morisにて)
問い合わせ 03−5537−0023(Live&Moris)090-3803-1989(森下)
☆会場にてBSジャパン『天下統一CG将軍』で作成したCG作品の上映を行います。
(「天下統一CG将軍」は、BSジャパン2008年1月3日(木)23:30から再放送)
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エコ@アジアニズム No.2 トーク&シンポジウム in横浜
2008年2月3日(日)午後3時〜シンポジウム@ZAIM本館シアター
入場料800円
パネリスト:
川田龍平(参議院議員/国会環境委員会メンバー)
「世界と日本の温暖化対策の現状比較、原発について」
志葉玲(環境ジャーナリストの会理事)
「中国の環境破壊と他国間におけるジャーナリストのネットワーク形成」
特別トーク「アートもエコロジーしちゃおう!」
森下泰輔 増山麗奈 李宣周(韓国自然美術家YATOO日本支部担当)
午後6時〜パフォーマンス ザイム本館3階シアターにて
増山麗奈+森下泰輔(身体+ノイズ)(☆パフォーマンスのみ無料)
ZAIM★〒231-0021横浜市中区日本大通34番地
電話 045-222-7030 ファックス 045-662-0509
http://za-im.jp/
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共催/銀座芸術研究所 exhibit Live&Moris ZAIM
キュレーター/増山麗奈
協賛/ハガレックス・ジャパン http://www.hagalex.jp/
出展作家/牛安(中国) 万里WANLI 森下泰輔 増山麗奈 中村均 東田理恵子
本杉美智子 李宣周(韓国)水谷かおり
協力/(株)ゴルゴ 江部純一
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映画『硫黄島からの手紙』で野崎一等兵を演じた俳優・松崎悠希(25)。世界の舞台で実力派俳優としての名をあげるべく渡米。持ち前のポジティヴ精神で幾多の困難を乗り越え、夢に向かってまい進する彼の素顔に迫った。
--- 波瀾万丈なアメリカ生活の幕開け ---
巨大スクリーンの中で迫真の演技を見せる松崎が演技を学び始めたのは7歳の頃。母親が運営する全国組織である子供演劇「LABO」に11年間所属し、子供向けコメディーなどに出演してきた。2000年7月、彼はアメリカの有名学校で演技を学ぶために渡米する。しかし目的地のバージニア州に向かうも、応募資格から外れていたため受け入れを拒否される。次に移動したニューヨークでは、滞在先で全財産を盗まれるというハプニングに見舞われ一文無しになってしまう。それからしばらくの間、松崎はタイムズ・スクエア駅周辺でストリート・パフォーマーとして糊口をしのいだ。
「渡米後間もなかったので英語は当然ろくに話せませんでした。だから日本語の歌を歌いながら踊っていたんです」
言葉も通じず、食べ物や寝る場所も全く保証されなかったNYでの生活は、彼を精神面で一層強くした。そしてある時、インディペンデント映画『ブラックニンジャ』のオーディションに参加するためにペンシルバニアを訪れる。そこで松崎は見事に600人を抜き、準主役の座を射止めた。
「ストリートでパフォーミングしていた経験のお陰か、今でもオーディションなどでも全く緊張はしませんね。基本的にどんな事にも動じません」
その後、松崎は映画の都ハリウッドへと活動の拠点を移し、コミュニティ・シアターでのパフォーマンスや、インディペンデント映画への出演など、意欲的に俳優としての活動を続けた。そして2003年、トム・クルーズ主演の映画『ラストサムライ』の官憲役で、彼はついにメジャーデビューを果たしたのだ。
--- 「硫黄島からの手紙」で野崎一等兵として出演 ---
クリント・イーストウッド監督による映画「硫黄島からの手紙」。そのキャスティングはある日突然決まった。
「イーストウッド監督が野崎一等兵の役で僕を気に入ってくれて、キャストされたのが撮影の2週間前。台本を渡されたのは撮影の2日前でした」
詳細を聞かされないまま撮影に入った松崎は役作りに没頭する。その意気込みは並大抵のものではなく、食生活まで変えてしまうというストイックなものであった。
「野崎になりきるために、家族の写真や彼が働いていた洋品店の写真を実際に自分で想像して作ったんです。野崎という人間が生まれてからどういう人生を送ってきたかを細かく書き出してみたりもしました。さらに食べ物がないという時代に生きるとはどういう事か、それを実際に再現するために5週間ほとんど何も食べない生活を送ってみたんです。不思議なことに、始めの1週間を超えるとお腹が減らなくなり、2週間過ぎた頃には何も食べなくても大丈夫になりました。それでいて、傍から見たら何も口にしていないとは分からないくらい普通でいられるんです。時々めまいがしたりする事はありましたけどね(笑)そこまでやって初めて戦時中の人の気持ちに共感する事ができたんです」
洞窟内でのシーンを演じるために、滞在先のホテルではバスルームの電気を消したまま冷たい床に座り込み、爆撃音が入ったCDを聞きながら実際の洞窟をイメージしたりもした。
「洞窟内での雰囲気を再現して体験したら、あとは忘れてもいいんです。覚えて演技するのではなく、過去の経験から自然と出てくる行動を演技の中でもすればいい」
そんな松崎の演技に対する情熱は、イーストウッド監督の目にもしっかりと焼き付いていた。監督自身の提案によって野崎一等兵が登場するシーンが次々と付け足されていったという。撮影当時のイーストウッド監督と現場の雰囲気を松崎はこう振り返る。
「実はイーストウッド監督の撮影はリハーサルをほとんどしない。どのシーンもほとんど1テイクで撮り終えるといったユニークなスタイルでした。「演技は一度目が一番光っている」という彼の信条のもとやっていたようです。監督から演技のディレクションは一切受けませんでした。それぞれのシーンで何をするかを軽く説明されてすぐに撮影に入るんです。それだけ役者の演技力を信じてくれているので、プレッシャーもありましたが、とてもやりやすかったですね」
「将来はアメリカ人と同じ土俵で争いたい」と松崎は言う。
「英語での僕の演技を見た人に「この人、日本人だな」と気付かれないようになれれば勝ちですよね(笑)」
--------------------
松崎悠希
Interview by Yuka Kawaguchi, Photo by Yoshihiro Makino
--- 波瀾万丈なアメリカ生活の幕開け ---
巨大スクリーンの中で迫真の演技を見せる松崎が演技を学び始めたのは7歳の頃。母親が運営する全国組織である子供演劇「LABO」に11年間所属し、子供向けコメディーなどに出演してきた。2000年7月、彼はアメリカの有名学校で演技を学ぶために渡米する。しかし目的地のバージニア州に向かうも、応募資格から外れていたため受け入れを拒否される。次に移動したニューヨークでは、滞在先で全財産を盗まれるというハプニングに見舞われ一文無しになってしまう。それからしばらくの間、松崎はタイムズ・スクエア駅周辺でストリート・パフォーマーとして糊口をしのいだ。
「渡米後間もなかったので英語は当然ろくに話せませんでした。だから日本語の歌を歌いながら踊っていたんです」
言葉も通じず、食べ物や寝る場所も全く保証されなかったNYでの生活は、彼を精神面で一層強くした。そしてある時、インディペンデント映画『ブラックニンジャ』のオーディションに参加するためにペンシルバニアを訪れる。そこで松崎は見事に600人を抜き、準主役の座を射止めた。
「ストリートでパフォーミングしていた経験のお陰か、今でもオーディションなどでも全く緊張はしませんね。基本的にどんな事にも動じません」
その後、松崎は映画の都ハリウッドへと活動の拠点を移し、コミュニティ・シアターでのパフォーマンスや、インディペンデント映画への出演など、意欲的に俳優としての活動を続けた。そして2003年、トム・クルーズ主演の映画『ラストサムライ』の官憲役で、彼はついにメジャーデビューを果たしたのだ。
--- 「硫黄島からの手紙」で野崎一等兵として出演 ---
クリント・イーストウッド監督による映画「硫黄島からの手紙」。そのキャスティングはある日突然決まった。
「イーストウッド監督が野崎一等兵の役で僕を気に入ってくれて、キャストされたのが撮影の2週間前。台本を渡されたのは撮影の2日前でした」
詳細を聞かされないまま撮影に入った松崎は役作りに没頭する。その意気込みは並大抵のものではなく、食生活まで変えてしまうというストイックなものであった。
「野崎になりきるために、家族の写真や彼が働いていた洋品店の写真を実際に自分で想像して作ったんです。野崎という人間が生まれてからどういう人生を送ってきたかを細かく書き出してみたりもしました。さらに食べ物がないという時代に生きるとはどういう事か、それを実際に再現するために5週間ほとんど何も食べない生活を送ってみたんです。不思議なことに、始めの1週間を超えるとお腹が減らなくなり、2週間過ぎた頃には何も食べなくても大丈夫になりました。それでいて、傍から見たら何も口にしていないとは分からないくらい普通でいられるんです。時々めまいがしたりする事はありましたけどね(笑)そこまでやって初めて戦時中の人の気持ちに共感する事ができたんです」
洞窟内でのシーンを演じるために、滞在先のホテルではバスルームの電気を消したまま冷たい床に座り込み、爆撃音が入ったCDを聞きながら実際の洞窟をイメージしたりもした。
「洞窟内での雰囲気を再現して体験したら、あとは忘れてもいいんです。覚えて演技するのではなく、過去の経験から自然と出てくる行動を演技の中でもすればいい」
そんな松崎の演技に対する情熱は、イーストウッド監督の目にもしっかりと焼き付いていた。監督自身の提案によって野崎一等兵が登場するシーンが次々と付け足されていったという。撮影当時のイーストウッド監督と現場の雰囲気を松崎はこう振り返る。
「実はイーストウッド監督の撮影はリハーサルをほとんどしない。どのシーンもほとんど1テイクで撮り終えるといったユニークなスタイルでした。「演技は一度目が一番光っている」という彼の信条のもとやっていたようです。監督から演技のディレクションは一切受けませんでした。それぞれのシーンで何をするかを軽く説明されてすぐに撮影に入るんです。それだけ役者の演技力を信じてくれているので、プレッシャーもありましたが、とてもやりやすかったですね」
「将来はアメリカ人と同じ土俵で争いたい」と松崎は言う。
「英語での僕の演技を見た人に「この人、日本人だな」と気付かれないようになれれば勝ちですよね(笑)」
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松崎悠希
Interview by Yuka Kawaguchi, Photo by Yoshihiro Makino
ヴィデオ・アートの第一人者として世界的に高い評価を受ける、ニューヨーク出身のアーティスト、ビル・ヴィオラ。1970年以降、ヴィデオ・アートを作り続け、全米やヨーロッパ各地で数々の展覧会を成功させてきた。また彼の妻であり、仕事のパートナーでもあるキラ•ペロフは、常に彼の制作活動の支えとなってきた。見る者をその世界へと引き込む彼の作品の多くが、人間の根源とも言える「誕生」や「死」をテーマとして取り上げている。また彼は、1980年代に日本に長期滞在した際に、日本の伝統や文化から多大な影響を受けたアーティストでもある。10月14日からは、東京六本木にある「森美術館」でその集大成とも言える、アジアにおける初の大規模な回顧展が行われている。今回我々は、彼が活動の拠点を置くカリフォルニア州ロングビーチのスタジオで独占インタビューに成功。彼がアート活動をはじめるまでの経緯や、彼にとっての芸術活動の在り方について語ってもらった。
COOL: どんな少年時代を過ごされましたか?
BILL VIOLA: 僕はNY郊外で生まれ育ったんだ。周りはいつも同年代の様々な人種の子供達で溢れていて、よくみんなで一緒に遊んでいたね。それはアメリカならではの、とても賑やかで楽しい環境だったよ。普段はなかなか自然を目にする機会がなかったけど、ある年の夏、ビーチに家族で遊びに行ったとき、空の青さと海の広さに感動したのは一番の思い出だね。
C: アート活動をはじめたきっかけは?
B: 3歳の頃に母親に絵を描くように薦められたんだ。それで家やボートや人などを頭の中に想像しながら描くようになった。そのうちに、家族や親戚、周りの人が皆、僕の描く絵にすごく興味を持つようになったんだ。幼稚園の時に初日の授業中に竜巻の絵を描いたんだけど、先生がそれを全員の前で見せてね。とても恥ずかしかったのを覚えているよ(笑)でもそれ以降も、僕が授業で描いた絵はよく注目を浴びていたんだよ。
C: 影響を受けたアーティストは誰ですか?
B: 難しい質問だね(笑)たくさんのアーティストからいろいろな影響は与えられてきたと思うけれど、中でもヴィデオ・アートの創始者とも呼ばれるナムジュン・パイク(Namjune Paik)は、僕にたくさん勇気や自信を与えてくれた。さらに展覧会を開くことも薦めてくれた。彼は僕に芸術活動をするチャンスを与えてくれたんだ。僕は彼の作品に影響を受けたというよりも、彼のアーティストとしての生き方に共感しているんだ。他にも、20世紀の偉大なピアニストの一人であるデビッド•テューダー(David Tudor)も、僕にサウンドを学ばせてくれた大切な人だね。1973年に、はじめて彼と出会ったんだ。当時エレクトリック音楽を勉強していた僕は、彼と8年間にわたって供にパフォーマンスしてきた。彼は物静かな人であまり話したりしないんだけど、溢れるばかりの強いエネルギーに満ちた人だった。彼から学んだサウンドスキルは、今の僕のビデオ制作に大きな影響を及ぼしているんだ。
C: ビデオアーティストとしてどんな瞬間に喜びを感じますか?
B: ベッドでゆっくり眠れる時間が取れたときだね!(笑)いや、それは冗談だけど、実はアート活動は僕にとって喜びではないんだ。作品を思い通りに作り上げることに喜びを感じることはあっても、ほとんどの場合は答えを見つけようと奮闘している。夜眠りにつくときも、どうしたらこの作品をもっとよくできるかとか、たくさんのことを考えていて気が張りつめているんだ。例えば、木を切ってテーブルを作る作業にはきちんと終わりが見えているけれど、アートには終わりがないよね?僕は自分の作品に100%の満足感を感じたことはないんだ。人間は皆完璧ではないからね。アーティストもその一部だ。物事に対する答えを知っているから作品を作り続ける訳ではなく、ただ心の中の空いたスペースを埋めていくために、僕たちは作品作りに没頭しているのではないだろうか。
C: 制作のアイデアはどんな所から生まれているのですか?
B: 今までアイデアを得るのに困ったことは一度もないよ。僕は常にノートにアイデアを書き留めているからね。今僕が座っている後ろの本棚の上にたくさんのノートが並んでいるだろう?そこには僕のアイデアがいっぱい詰まっているんだ。僕の今までのビデオ制作はこの中からのほんの一部にすぎない。肝心なのはそのたくさんあるアイデアの中からどれを作品化するか、いつ作品化するか、そしてどう作っていくか決めることなんだ。いくら頭の中で大きなことを考えていても、それを作品にできなかったら意味がないだろう?実際に作品にして、周りの人々にどう影響を与えていけるかっていうことが大切なんだ。
C: あなたの作品を観たオーディエンスに何を感じ取ってほしいですか?
B: 僕らの生活はテレビやラジオや雑誌など実に多くのメディアに囲まれていて、人々は目にした物や耳にした物をそのまま受け止めることに慣れすぎてしまっている。見た物に対して自分がどう感じるかについて考える機会がなくなってきているために、自身で考えるということをしなくなっているんじゃないかな。例えば、毎日コーラを飲めと渡されてきた人が、ある日突然水を渡されたらきっと戸惑うし気に入らないだろう?それと同じだよ。20世紀のアートは新しいテイストを取り入れていくアヴァンギャルドなものなんだ。しかし新しいものを受け入れるというのはとても時間のかかることだよ。だって受ける側の感性はクリアではない。既に何かの影響を受けてしまっているからね。人々は自分の考えが正しいと思えなくなってきている。僕の両親は、僕のアートワークを見ることを躊躇していた。それは僕が伝えようとしていることをいまひとつ理解できなかったからなんだ。そしてそれを恥だと感じていた。でも本当はそんなふうに感じる必要はまったくないんだ。作品を見て自分が感じたこと、それが答えなんだ。正しいか間違いかなんて誰にも決められないんだよ。
C: あなたの作品には「誕生」や「死」といったテーマが取り上げられていることが多いですが、それはなぜですか?
B: それが人間の人生の根源だからさ!1988年に僕と妻の一人目の子供が生まれたとき、僕は出生の瞬間に立ち会ったんだ。その時の感動は一生忘れることができないよ。それは本当に奇跡的な体験だった。そして1991年には僕の母が亡くなった。僕の目の前でベッドの上でね。生と死の瞬間をこの二つの出来事を通して目の当たりにして以来、僕はもう静止画像の作品を作ることができなくなった。人間の本質のように深くて美しく、時として醜い、そういったものを表現したくなったんだ。
C: その人間の本質の一つである「死」をオーディエンスにどう受け止めてほしいですか?
B: 大切なのは「死」をネガティブなものとして受け止めないことだ。「死」はいつか必ず自分にも訪れるもの。それは悲しいことだけど、とても深いものなんだ。
C: あなたは作品の中で「スローモーション」を多く使用されていますよね?それはなぜですか?
B: ハエは数日間しか生きることのできない生物だが、人間は恵まれていれば80年以上生きることができるよね。長いとか、短いとか、我々の時間の感覚はそれぞれ違っているんだ。何かがすごいスピードで起きたとき、僕たちの体は考える間もなく反応している。例えば、車の事故に遭ったときだって、しばらくしてからふと我にかえったりする。僕たちのマインドは後からついてきているんだ。
でもその瞬間に実はたくさんの事が起きている。瞬時に起きている物事に人々は気付いていない。作品の中で「スローモーション」を使う事によって、「瞬間」という小さなタイムフレームに目を向けることができるんだ。
C: テクノロジーが発達したことによってあなた表現の可能性は広がったと感じますか?
B: そうだね、1970年代の頃と比べたら本当に変わったよ。自分はとてもラッキーだと思う。当時、テクノロジーの進歩にとても感動を覚えたし芸術活動の新しいフォームとなっていくだろうと感じたよ。でもそんなテクノロジーの進歩以前に、僕は既にヴィデオ・アートをはじめたときから「自分はこれを一生続けていくんだ」と確信していたんだ。
C: 過去の展示会の中で印象的なものはどれですか?
B: どれももちろんよかったけれど、1979年に開いた個展『Projects: Bill Viola』 はとても印象的だった。ニューヨークの「MoMA(The Museum of Modern Art New York)」で、僕が28歳のときに開いたものだよ。1996年にはパリの「ソルペトリア」という大きな教会で『Messenger』と『Crossing』の2つの作品を上映したんだけれど、それも心に残っているね。
C: 2005年の春にフランス、パリで開かれたオペラ『トリスタンとイソルデ』はいかがでしたか?
B: LA交響楽団のイーサペッカ•サロネン、監督ピーター•セラーズ、そしてリチャード•ワーグナーの音楽による4時間の映像と音楽とのコラボレーションを作り出すことができたこのオペラは本当に素晴らしかった。実は、このオペラは来年の春にロサンゼルスの「ディズニーホール」で、そして来年の5月にはニューヨークの「リンカーンセンター」でも再演される予定なんだ。
C: 日本での1年半の滞在はあなたの作品制作にどう影響を与えていますか?
B: 日本で「外国人」として生活することを初めて体験した。文化や、言葉や人種の違いを肌で感じることができたとても良い経験だったと思う。日本はテクノロジーの発達が最も著しい国だけど、その一方で守られてきている伝統文化もある。過去と現在、古いものと新しいものが共存した国だという印象を受けた。それが僕の視野を広めてくれたと思っているよ。
C: 今回の日本の展覧会で、ご自身の作品のタイトルのひとつでもある『はつゆめ』をタイトルとして選んだ理由は?
B: この案はキラと僕で思いついたものなんだ。確かに『はつゆめ』は日本にいる間に作った作品だから、今回の個展のタイトルにしたというのもあるんだが、実を言うと、『はつゆめ』という作品ばかりにそれほどフォーカスして欲しくはないんだ。ただ純粋に「一年の初夜に見る夢」という日本的なアイデアから取り上げたものだからね。
C: 最後に、日本のファンの人々にメッセージをお願いします。
B: いろいろな物を目にして、耳で感じて、自分の感性を大切にして欲しいと思う。(大事なことは)障害にばかり目を向けずに、先ずは何事もはじめてみることだよ!
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ビル・ヴィオラ(Bill Viola)
COOL: どんな少年時代を過ごされましたか?
BILL VIOLA: 僕はNY郊外で生まれ育ったんだ。周りはいつも同年代の様々な人種の子供達で溢れていて、よくみんなで一緒に遊んでいたね。それはアメリカならではの、とても賑やかで楽しい環境だったよ。普段はなかなか自然を目にする機会がなかったけど、ある年の夏、ビーチに家族で遊びに行ったとき、空の青さと海の広さに感動したのは一番の思い出だね。
C: アート活動をはじめたきっかけは?
B: 3歳の頃に母親に絵を描くように薦められたんだ。それで家やボートや人などを頭の中に想像しながら描くようになった。そのうちに、家族や親戚、周りの人が皆、僕の描く絵にすごく興味を持つようになったんだ。幼稚園の時に初日の授業中に竜巻の絵を描いたんだけど、先生がそれを全員の前で見せてね。とても恥ずかしかったのを覚えているよ(笑)でもそれ以降も、僕が授業で描いた絵はよく注目を浴びていたんだよ。
C: 影響を受けたアーティストは誰ですか?
B: 難しい質問だね(笑)たくさんのアーティストからいろいろな影響は与えられてきたと思うけれど、中でもヴィデオ・アートの創始者とも呼ばれるナムジュン・パイク(Namjune Paik)は、僕にたくさん勇気や自信を与えてくれた。さらに展覧会を開くことも薦めてくれた。彼は僕に芸術活動をするチャンスを与えてくれたんだ。僕は彼の作品に影響を受けたというよりも、彼のアーティストとしての生き方に共感しているんだ。他にも、20世紀の偉大なピアニストの一人であるデビッド•テューダー(David Tudor)も、僕にサウンドを学ばせてくれた大切な人だね。1973年に、はじめて彼と出会ったんだ。当時エレクトリック音楽を勉強していた僕は、彼と8年間にわたって供にパフォーマンスしてきた。彼は物静かな人であまり話したりしないんだけど、溢れるばかりの強いエネルギーに満ちた人だった。彼から学んだサウンドスキルは、今の僕のビデオ制作に大きな影響を及ぼしているんだ。
C: ビデオアーティストとしてどんな瞬間に喜びを感じますか?
B: ベッドでゆっくり眠れる時間が取れたときだね!(笑)いや、それは冗談だけど、実はアート活動は僕にとって喜びではないんだ。作品を思い通りに作り上げることに喜びを感じることはあっても、ほとんどの場合は答えを見つけようと奮闘している。夜眠りにつくときも、どうしたらこの作品をもっとよくできるかとか、たくさんのことを考えていて気が張りつめているんだ。例えば、木を切ってテーブルを作る作業にはきちんと終わりが見えているけれど、アートには終わりがないよね?僕は自分の作品に100%の満足感を感じたことはないんだ。人間は皆完璧ではないからね。アーティストもその一部だ。物事に対する答えを知っているから作品を作り続ける訳ではなく、ただ心の中の空いたスペースを埋めていくために、僕たちは作品作りに没頭しているのではないだろうか。
C: 制作のアイデアはどんな所から生まれているのですか?
B: 今までアイデアを得るのに困ったことは一度もないよ。僕は常にノートにアイデアを書き留めているからね。今僕が座っている後ろの本棚の上にたくさんのノートが並んでいるだろう?そこには僕のアイデアがいっぱい詰まっているんだ。僕の今までのビデオ制作はこの中からのほんの一部にすぎない。肝心なのはそのたくさんあるアイデアの中からどれを作品化するか、いつ作品化するか、そしてどう作っていくか決めることなんだ。いくら頭の中で大きなことを考えていても、それを作品にできなかったら意味がないだろう?実際に作品にして、周りの人々にどう影響を与えていけるかっていうことが大切なんだ。
C: あなたの作品を観たオーディエンスに何を感じ取ってほしいですか?
B: 僕らの生活はテレビやラジオや雑誌など実に多くのメディアに囲まれていて、人々は目にした物や耳にした物をそのまま受け止めることに慣れすぎてしまっている。見た物に対して自分がどう感じるかについて考える機会がなくなってきているために、自身で考えるということをしなくなっているんじゃないかな。例えば、毎日コーラを飲めと渡されてきた人が、ある日突然水を渡されたらきっと戸惑うし気に入らないだろう?それと同じだよ。20世紀のアートは新しいテイストを取り入れていくアヴァンギャルドなものなんだ。しかし新しいものを受け入れるというのはとても時間のかかることだよ。だって受ける側の感性はクリアではない。既に何かの影響を受けてしまっているからね。人々は自分の考えが正しいと思えなくなってきている。僕の両親は、僕のアートワークを見ることを躊躇していた。それは僕が伝えようとしていることをいまひとつ理解できなかったからなんだ。そしてそれを恥だと感じていた。でも本当はそんなふうに感じる必要はまったくないんだ。作品を見て自分が感じたこと、それが答えなんだ。正しいか間違いかなんて誰にも決められないんだよ。
C: あなたの作品には「誕生」や「死」といったテーマが取り上げられていることが多いですが、それはなぜですか?
B: それが人間の人生の根源だからさ!1988年に僕と妻の一人目の子供が生まれたとき、僕は出生の瞬間に立ち会ったんだ。その時の感動は一生忘れることができないよ。それは本当に奇跡的な体験だった。そして1991年には僕の母が亡くなった。僕の目の前でベッドの上でね。生と死の瞬間をこの二つの出来事を通して目の当たりにして以来、僕はもう静止画像の作品を作ることができなくなった。人間の本質のように深くて美しく、時として醜い、そういったものを表現したくなったんだ。
C: その人間の本質の一つである「死」をオーディエンスにどう受け止めてほしいですか?
B: 大切なのは「死」をネガティブなものとして受け止めないことだ。「死」はいつか必ず自分にも訪れるもの。それは悲しいことだけど、とても深いものなんだ。
C: あなたは作品の中で「スローモーション」を多く使用されていますよね?それはなぜですか?
B: ハエは数日間しか生きることのできない生物だが、人間は恵まれていれば80年以上生きることができるよね。長いとか、短いとか、我々の時間の感覚はそれぞれ違っているんだ。何かがすごいスピードで起きたとき、僕たちの体は考える間もなく反応している。例えば、車の事故に遭ったときだって、しばらくしてからふと我にかえったりする。僕たちのマインドは後からついてきているんだ。
でもその瞬間に実はたくさんの事が起きている。瞬時に起きている物事に人々は気付いていない。作品の中で「スローモーション」を使う事によって、「瞬間」という小さなタイムフレームに目を向けることができるんだ。
C: テクノロジーが発達したことによってあなた表現の可能性は広がったと感じますか?
B: そうだね、1970年代の頃と比べたら本当に変わったよ。自分はとてもラッキーだと思う。当時、テクノロジーの進歩にとても感動を覚えたし芸術活動の新しいフォームとなっていくだろうと感じたよ。でもそんなテクノロジーの進歩以前に、僕は既にヴィデオ・アートをはじめたときから「自分はこれを一生続けていくんだ」と確信していたんだ。
C: 過去の展示会の中で印象的なものはどれですか?
B: どれももちろんよかったけれど、1979年に開いた個展『Projects: Bill Viola』 はとても印象的だった。ニューヨークの「MoMA(The Museum of Modern Art New York)」で、僕が28歳のときに開いたものだよ。1996年にはパリの「ソルペトリア」という大きな教会で『Messenger』と『Crossing』の2つの作品を上映したんだけれど、それも心に残っているね。
C: 2005年の春にフランス、パリで開かれたオペラ『トリスタンとイソルデ』はいかがでしたか?
B: LA交響楽団のイーサペッカ•サロネン、監督ピーター•セラーズ、そしてリチャード•ワーグナーの音楽による4時間の映像と音楽とのコラボレーションを作り出すことができたこのオペラは本当に素晴らしかった。実は、このオペラは来年の春にロサンゼルスの「ディズニーホール」で、そして来年の5月にはニューヨークの「リンカーンセンター」でも再演される予定なんだ。
C: 日本での1年半の滞在はあなたの作品制作にどう影響を与えていますか?
B: 日本で「外国人」として生活することを初めて体験した。文化や、言葉や人種の違いを肌で感じることができたとても良い経験だったと思う。日本はテクノロジーの発達が最も著しい国だけど、その一方で守られてきている伝統文化もある。過去と現在、古いものと新しいものが共存した国だという印象を受けた。それが僕の視野を広めてくれたと思っているよ。
C: 今回の日本の展覧会で、ご自身の作品のタイトルのひとつでもある『はつゆめ』をタイトルとして選んだ理由は?
B: この案はキラと僕で思いついたものなんだ。確かに『はつゆめ』は日本にいる間に作った作品だから、今回の個展のタイトルにしたというのもあるんだが、実を言うと、『はつゆめ』という作品ばかりにそれほどフォーカスして欲しくはないんだ。ただ純粋に「一年の初夜に見る夢」という日本的なアイデアから取り上げたものだからね。
C: 最後に、日本のファンの人々にメッセージをお願いします。
B: いろいろな物を目にして、耳で感じて、自分の感性を大切にして欲しいと思う。(大事なことは)障害にばかり目を向けずに、先ずは何事もはじめてみることだよ!
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ビル・ヴィオラ(Bill Viola)
1984年のオープン以来、ニューヨークでキャリアを作り上げようとする世界中の新生アーティストを発見し紹介し続けるアゴラギャラリー。
同ラギャラリー恒例の23回チェルシー・インターナショナル・ファインアート・コンペティションのエントリーが2008年2月7日より始まる。有名なアートコミュニティーで利益増加のためにアーティストの入選作品の展示を行うだけではなく、このコンペティションは芸術界では世界でも有力な発言者チェルシー美術館長マノン・スロム氏によって審査される。
結果発表は4月15日におこなわれ、優勝アーティストには賞金$38,000他、ウェブサイトwww.Art-Mine.comでのプロモーションと、「ARTisSpectrum」マガジンの1ページに2つのカラー画像と評論を掲載。さらに、世界的にも名声のある館長、そして芸術コンサルタントとしても有名なマノン・スロム氏により、15〜20名のアーティスト作品がアゴラギャラリーでのグループ展の展示に選出される。
アゴラギャラリーディレクターのアンジェラ・ディ・ベロ女史は、「チェルシー・インターナショナル・ファインアート・コンペティションに参加するには勇気が必要だ。それは信念の証と自身の才能と力を信じる気持ちでもあり、コンペティションにエントリーする全てのアーティストが勝者なのです」と言う。
チェルシー・インターナショナル・ファインアート・エキシビジョンでは、アーティストをリプレゼントするだけではなく、収益の25%が児童基金に寄付される。
エントリー締め切りは2008年3月7日。
詳細→http://www.agora-gallery.com/jap/events/chelseafineartcompetition2008.aspx
http://www.Agora-Gallery.com/2008